叶内文子の社長インタビュー:ジャベリ・アルパン氏((株)ベリテ代表取締役社長)

株式会社ベリテ(1991年9月26日上場/東証2部:9904)

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ベリテロゴ

 

宝飾品小売りチェーン大手のベリテをこの2年ほど取材している。決算説明会でのジャベリ・アルパン社長はいつも非常に慎重である。業績は急回復を見せているが、「当たり前のことを当たり前のようにやっているだけです。私の個人テーマは安全第一なので、状況を把握し普通のことを普通にやるだけです。」とおっしゃる。それだけで業績があがるものだろうか。そもそもインド人のアルパンさんがなぜここで社長をやっているのだろう。いったいどんな方なのか興味をもち、ロングインタビューを申し込んだ。ベリテは70周年という記念の年でもある。

ご快諾いただき、気軽な雰囲気で話しましょうと食事をしながらのお話になった。すると、まずインドの風習を全く知らなかったため説明していただくのに時間がかかり、さらにアルパン社長が経験してきたことが面白く、あっという間に4時間ほどが経ってしまった。

ベリテ社長

↑代表取締役社長 ジャベリ・アルパン・キルティクマール

 


アルパン社長の原点がわかりそうな子供時代からうかがってみよう。

ジャベリ・アルパン・キルティクマール氏はインド生まれ、神戸育ちである。
インド生まれといっても、生まれて2か月で神戸に来たそうだ。


 

神戸は1868年の開港以来貿易港として栄え、外国人が多く移り住んだ。インドからも繊維を扱う人、雑貨商、そして真珠を商う人々がやって来た。明治時代にも世界で最も外国人が住みやすい街と評された神戸は、外国人学校、宗教施設も整備され、現在まで3世4世と住み続ける人も多い。インド人コミュニティもつくられており、観光客にも人気の北野坂を上ったあたりにはジャイナ教寺院の白亜の建物がある。アルパンさんもこの寺院を見ながら育った。

 

アルパンさんの父が日本にやって来たのは1970年。真珠商人の仲間に招かれて働きに来た。最初は一労働者として苦労したそうだが、数年で独立した父は1980年代に事業に成功。真珠商人として大きな取引を次々と成功させていく。ちょうど日本が空前の好景気に沸いた時代だ。
その間に、姉、そして1978年にアルパンさんが生まれる。父の事業の拡張に伴って子供のアルパンさんの生活も変わった。夏休みにインドに帰る飛行機がファーストクラスになり、姉と窓際の席を争った。途中に寄る香港のホテルはシャングリラのスイート。ルームサービスでアイスクリームを食べるのが好きだった。まだ高額だったパソコンも販売されるとすぐに買ってもらった。
一方で、仕事の手伝いもしていた。真珠を数え、選別し、連に組む。寝室のベッドのわきには真珠がいつも積んであったという。おそらく一般の人が一生かけて目にする真珠を最初の1週間で既に見ただろう。こうして子供のころから本物の真珠を見て触れて育った。
さらに父が自宅で商談する様子も見ていた。朝早くにユダヤ人が真珠を買いに来る。モーニングライトと言って一番真珠をよく見られる、朝の自然な安定した光の中で、彼らは億単位の真珠を選んで置いて行き、その後日本の大手卸で他の真珠も見て回ってくる。そして選んで置いたうちの7割ほどを買っていくのが常だった。そうすると1度のビジネスで数千万円の利益になる。
野球が見たくてしかたなかった時も父のビジネスに連れていかれた。かわいい子供を連れているとちょっとした和みになり、ビジネスに有利に働いた面もあったのだろう。日本の会社では商談が終わったあと、エレベーター、駐車場まで見送ってくれた。振り返ると受付の方がずっとお辞儀をしている。これが日本の「礼儀」だと学んだ。銀行も感動するホスピタリティだった。

 

数十年前の日本の礼儀正しさを、アルパンさんは今のベリテで再現しようとしているのかもしれない。繰り返し研修を行う接客は、10代の頃に受けた感激がもとになっているようだ。

 

時代はまだ熱を帯びていたが、株価が天井をつけたのは1989年。
そろそろひずみが表れ始めていた。
アルパンさんが中学生の頃だ。
大きなお金が動くビジネスに、度胸のない仲間は離脱していった。そんななかアルパンさんの父はどんどんビジネスを拡張した。
お金があるところには、人が集まってくるものだ。いい人も、悪い人も。
ある時は日本人が数千万円から数億円の規模でお金を借りに来た。父はほとんど無担保で貸していた。
お菓子をくれたりしていい人だった、とアルパンさんは言う。礼儀も正しかった。
そんな人達がある日突然お金は返せませんと言う。そして、家を担保に差し出してきた。父はその家のローンも肩代わりした。その家は、後に10分の1の値段でしか売れなかった。朝自分の家に来て、母の煎れたチャイを飲んでいた人が、昼に自己破産をし、お金を返せないと言う。でも、その人は数週間後街でベンツに乗っていた。
銀行も手のひらを返したように態度が変わった。
一度銀行の催促に怒った父がスーツケースに現金を詰め込んで返済に行ったことがある。
そんな光景を少年はずっと見ていた。

 

1995年1月17日5時46分。阪神淡路大震災が故郷をおそった。
雪が降っていたせいで、朝5時に出発するはずだった父が出かけるのを遅らせていた。父が玄関を出た瞬間、ドーンという大きな音。マグニチュード7.3の直下型地震。もし予定通り出かけていたらちょうど倒壊した高速道路を走っていたはずだった。土台からなぎ倒され、世界にもショックを与えたあの高速道路だ。
電気が止まって、電気式ロックだった家の扉が開かなくなり、寒空の下、家に入れなくなってしまった。翌日真珠の買い付けに通っていた伊勢の宿に向かった。通常車で3時間だったところ24時間はかかっただろうか。1メートルづつしか進めない車の窓から見た神戸は、まるで映画で見た戦後の町並みのようだった。家がぺっしゃんこに押しつぶされ、どこからどこまでが一軒なのかもわからない。裸足の人が家族を探して叫んでいる。木造建築が密集する地域ではあちこちから火の手があがっていた。
阪神淡路大震災は当時戦後最大の地震災害で6000人以上の方が亡くなった。神戸市で全半壊12万棟超、火災による被害は7千棟にのぼる。直後から停電し、ようやく灯りがついたのは約1週間後。水道は復旧するまで3か月もかかった。通っていた学校も倒壊し、2年間は仮設校舎だった。

 

この時からアルパンさんはトイレで電気をつけなくなった。
今でもそれは続いていて、社内で最初はびっくりされるという。電気がなくても大丈夫なら電気をつけない。なるべく無駄はしない。あの時、電気や水のありがたさは身に染みた。

 

震災も追い打ちをかけ、その1年後父が事業を閉じた。
借金は踏み倒され、景気悪化で宝飾品業界は真っ先に苦しくなった。父はそれでも全ての借金を返済した。そして「真珠ビジネスの将来は厳しい。お前はサラリーマンになれ」と言ったそうだ。

 

アルパンさんの慎重さはここに起因するのだろう。最悪を常に考える。バックアップを用意する。借金はしない。義理はつくらない。少年の心に刻まれた光景が、「お金の心配をせずにゆっくり眠れるのが一番」と言わせるのかもしれない。

 

インドの宝飾業界では通常、息子は父の仕事を継ぐ。そもそもジャベリという名は「宝石」を意味しているという。宝飾品に関係する仕事をする人達だ。アルパンさんも真珠卸の事業を継ぐのを当然と考えていた。大学に通いながらダイヤモンドについても勉強しようと、父の家が残してあったインドに行くことにした。
大きな家がふたつあり、祖母とコックが暮らしていたが、生活を始めるのは大変だった。銀行、役所の手続きなど自分一人でやらなければならない。ゼロからのスタートだった。カルチャーショックも大きかった。なにしろインド人だが神戸しか知らないのである。トイレの排管が整備されていないことによる強烈な臭い。人の多さ。生活習慣も違い、ムンバイのレストランではディナータイムは21時過ぎが一般的だったそうだ。

「大学」に行ってみると、そこには映画で見たアメリカの大学のようなキャンパスは無く、古びたビルが建っているだけ。人が車からはみ出るほど混んだバスで渋滞する道を30分、通うのも一苦労だ。
朝大学に行き、昼から父の知り合いの卸商のもとにダイヤモンドの勉強に通う。まず学ぶのは選別だ。テーブルに何千個もひろげられたダイヤモンドを、大きさやグレードで分けていく。グレードは会社ごとに細かな基準が違うそうだ。たくさんのダイヤを見て、比べることで初めて違いがわかってくる。色、小さな傷、内包物。数か月の練習の後、働いている人たちに交じって実践に入った。選別したダイヤは小分けにされて世界に送られ、もし選別が甘ければ卸会社から送り返されてくる。仕事仲間は2時間かけてやって来る若い人から20年やっているベテランまで様々いて、彼らの月給は日本円で平均2万円程度。海外支店に異動になれば現地水準に合わせてもう少し給料が上がる仕組みで、海外に行くことは彼らの夢だったという。ずっとライトをつけて細かいものを見続けて目がおかしくなるような作業。同じジュエリーを扱う仕事だが、神戸で見ていた父の仕事とはあまりに違った。実家でもお金を大事にするようにと育てられたが、ここではさらに1円もおろそかにできない、お金を稼ぐのは大変なことなのだと実感する。また、アルパンさんはダイヤモンドを勉強中で働いている彼らと立場は違ったが、よく一緒に食事に行った。そこで初めてインド市民の普通の生活を知ることになる。住居や道路が整備された都市部でも、いきなり出現する雑な作りの小屋のような家。父母の居る日本から一人で来ているとはいえ、アルパンさんには家がふたつあった。自分がどれほど恵まれていたかを知った。

 

こうして現場で学ぶうち、自分もジュエリーの仕事をするなら大学の勉強は無意味と思い、すぐに辞めた。
この短くて濃かったインド時代、アルパンさんは国や文化による違いを受け入れるということを学んだという。父母の国ではあるが、生活を始めた当初インドは大嫌いだった。インドでは、例えば電話が故障しても修理されるまで2週間もかかった。まず修理の依頼をするのに1時間かけて行って、数百人も並んでいる列の後ろについて待つ。ガネーシャのお祭りなど宗教行事で受け付けない日もあった。また、友人が約束に20~30分遅れてくるのは普通だった。役所でもなんでも「交渉」だ。「交渉」がうまくいけば便宜を図ってもらえる。インドで運転免許を取るには地域交通局に行って試験を受けるが、係官によって言うことが違ったりする。ここでもまたまた長い列である。これを避けるためにはちょっとしたお金を使った「交渉」が有効だったりするようだ。また、もし車を運転していて右折を間違えて事故をおこしたりすれば警察につかまるがここでも「交渉」。免許にある住所でお金を持ってることがわかるので、いくら出せと言ってくる。ここで友人は「いや交番に行こう」と強く出て値切る。「ずる賢さ」を学んだともいえる。神戸育ちの「ぼんぼん」にとって初めは全く理解できないことだったが、だんだんとやり方がわかってきた。ここで生きていくには自分が環境に合わせていくしかないなと思うようになってから、どんな時もあまり怒らなくなった。それは、「different」であって、どちらが悪いというものではない。
そして自己責任の徹底。この時代のインドでは自動車を駐めたらカーオーディオやサイドミラーは外して持っていくものだ。盗まれるのは自分の注意が足りない。スキを見せるほうが悪いのである。そして誰かが何かしてくれるのを当たり前だと思ってはいけない。そこには何か理由があるのだ。お金、ビジネス、あるいは好意。
人口密度の高いムンバイは神戸の13倍ほどの人が居る。アルパンさんは「なんでも13倍なんです」と言う。役所での順番待ちの列も、街の臭いも、渋滞も13倍ひどいが、人々の活気も13倍ある。多様性も13倍だ。宗教がまずいくつもある。日本のコンビニレベルで寺院があり、何事も宗教に根差して行われる国だ。そのうえ言葉も違えば、ベジタリアンなどの食習慣も違う。さらに収入のレベル差もあって、人々の違いも13倍。なんでも詰め込まれた「カレーポット」のような街だという。

友人も増えて、最初大嫌いだったインドを好きになった頃、ダイヤモンドの勉強をしていた会社の社長にそろそろ日本に戻ったらどうかと言われた。日本に戻って向こうで仕事をしてほしい、と。帰りたくなかったが、社長と父との間で話が決まってしまった。父親の指示は絶対である。日本育ちで日本語ができ、風習も心得た最高の人材として、日本支店に送りこまれることとなり、アルパンさんのインドでの生活は突然終了した。

ベリテはコーポレート・ビジョンとして「Diversity with Brilliance」を掲げる。アルパンさんにとって多様性を大事にすること、そして柔軟に対応することはインド時代に培われたものかもしれない。私たちは簡単に「どこそこ出身だからあの人とは合わない」などと言ってしまうが、日本ではいくら方言でもだいたい言ってることくらいはわかる。有名なインド映画「踊るマハラジャ」は、実は多くのインド人は何を言ってるかわからないのだそうだ。インドには22言語もある。それくらい「違い」が大きい。そんな中で生活したからこそ、「合わないのではなく合わせるのです」という考え方に行きついたのではないだろうか。

アルパンさんの子供時代から青年期のお話をうかがってきたが、現在の「日本人的」と言われる「おもてなし」を大事にするところ、日々の積み重ねが全てだという一見地味な経営方針の源がわかってきた気がする。宝石に対する深い知識は育ちを考えれば全く不思議はない。

さて、仕事を始めたアルパン青年がどう成長したのか、このあともうかがっていこう。

(掲載日 2018年9月18日)

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