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東京IPO特別コラム:「歴史の重み:中世」

〜語られないものを視る眼〜


「歴史の重み:中世」


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中世ヨーロッパは一般的に暗黒時代と言われていますが、ここでは日本の封建時代と異なる点を2つ紹介し、歴史上中国の一路一帯路線を考える上で参考になると思われるモンゴル帝国について書いていきたいと思います。

戦争と重税
日本の封建時代と異なる点の1つ目は武士・騎士の従軍義務です。日本では家来の武士が戦い終了まで従軍するものですが、ヨーロッパでは家来の騎士は年間40日間しか従軍義務がありません。よって、戦争が長引くと、家来の騎士に追加料金を払うか傭兵を雇うしかありません。この制約は戦争の長期化への一定の歯止めになったようです。(とはいえ、従軍義務日数を区切るあたり、あまり忠誠心は高くなかったのではないかと個人的に推測しますし、この頃から単身赴任は嫌いということですね)

それでも、戦いを継続したいとなると、傭兵を雇うことになります。現代にまで残る傭兵として有名なのは、ヴァチカン市国にいるスイス傭兵です。(映画「天使と悪魔」でカラフルな中世の服装で登場していた衛兵たちがそうです)

少し脱線しますが、傭兵は通常未開と思われていたヨーロッパの僻地出身が多いですが、山岳地帯のスイスからもいました。昔スイス人は頭が悪いといわれ、腕力しか能がないといわれていたのですが、ある学術調査の結果、スイス人が最もヨウ素の摂取量が少ないということが判明し、世界中の食塩にヨウ素を入れることになりました。その後、スイスでも金融業が発達できるほどに変貌したとか。東日本大震災直後に放射能にヨウ素が利くときいて食塩を買い占め、後で困った中国人の報道がありましたが、ヨウ素といえば塩というのが、世界の常識です。但し、ヨウ素が入っていない塩を使っている国が2つ、日本と韓国です。なぜなら、ヨウ素が豊富な食物、海藻を食べる文化があるからです。

傭兵は、最初は個人で王侯貴族に売り込んでいたようですが、次第に武器技術が発達するにつれ、個人で武器を調達するコストも高いのでその操作技術を持つ集団として売り込む方が報酬もよくなりますので、集団化していきます。すると、傭兵集団も、なれ合いでわざと流血を最小限にし、城壁を堅固に作り、籠城し長期戦に持ち込ませ、攻守側共にお給料の長期確保を図る不逞な輩も出てきます。よって、当時も王侯貴族にとり、城壁を破壊できる大砲の登場をとても待ちわびたことでしょう。。。

こうした事情により、中世の王侯貴族にとり戦争は非常にコストが高いプロジェクトでありました。では、この戦費の調達方法ですが、方法は今も昔も2通りです。増税か借金です。増税は民の不満を当然誘発しますが、この不満の爆発については近世で後述します。一方の借金の相手は国内外の商人となります。しかし、商人にとり戦費調達は非常にリスキーです。勝てば実入りがあるかもしれませんが、負けてしまえば収穫ゼロか返済主が戦死する可能性もあります。そのため、まともな商人は渋ります。そんなハイリスクなビジネスチャンスに名乗りを上げたのが、ユダヤ商人です。

有名な例でいえば、フッガー家(商会)です。フッガー家はスペイン・ハプスブルク家やローマ法王の御用銀行として戦費を貸し付け、貸付先の勝利に伴い、銀山等の鉱山及び土地領有権をその代償にえることができ、爵位まで受けた身分でした。しかし、スペイン王室やフランス王室が戦争に負けて債権回収ができず、商会はやがて解消してしまいます。しかし、殺されなかっただけましかもしれません。オッペンハイマー家主は先王に戦争の資金調達の功績により大いに厚遇されていたにもかかわらず、子王の代で無実の罪で処刑されてしまいました。

王侯貴族がどれだけ自分の財布と相談しながら戦争をしていたか(相談する必要性を理解しているかどうかも)不明ですが、ここでは戦争はコスト的にも人員調達的にも悩ましいプロジェクトでした。(近世との対比となるトピックです)

華燭の典バトルロワイアル
日本の封建時代と異なる点の2つ目は、ヨーロッパでは婚外子(側室や愛人の子)は家督(王位継承権)を相続できません。これが意味するところは、一つには家が断絶し、他家に縁付いた子孫が相続する場合があることがあり、二つにはその遺産が近隣諸国の力のバランスを崩すことにより、戦争を誘発し得るということです。例えば、ヴァージン・クイーンことエリザベスI世の代でテューダー朝は幕を閉じ、イングランド王位はスコットランドのスチュアート家に、その後直系後継者の夭折により独ハノーファー家に引き継がれました。

こうした棚から牡丹餅式で幸運(そして不運も)を引き寄せたことで有名な例が、ハプスブルク家です。この家は元々スイスにある1貴族に過ぎませんでした。「マルス(戦いの神)が他のものに与えし国は、ヴィーナス(愛と美の神)によりて授けられん」という言葉通り、次々と名家と縁戚関係を結びます。結果、入り婿先・嫁ぎ先での王位・領土継承を経てネーデルランド(オランダ、ベルギー)、スペイン、ナポリ、シチリア、ミラノ、オーストリア、ハンガリー、ボヘミア+神聖ローマ皇帝位等ヨーロッパ一の帝国に膨れ上がりました。これが有名なカールV世(大帝)の版図です。

名家の直系断絶が頻発する背景には王家は財産の離散を防ぐため、互いに近しい「青い血」(王侯貴族の血統)を好む結果、近親結婚に近い状態が常態化し、虚弱体質、短命の子が生まれやすいということもあるようです。とはいえ、ある日突然どこかの王様の死去により、隣国が突然別の国となってしまうと、それまでの力のバランスが崩れてしまう、あるいは遺産相続争いが戦争に発展することがあります。

例えば、フランスはスペインとネーデルランドでハプスブルク家に挟まれた形になってしまい、カール大帝はほぼ生涯フランスと戦争をしていました。他にも、継承が引き金となった戦争で有名なものは、マリア・テレジアが皇位継承したことによるオーストリア継承戦争、フランス王位継承に関する百年戦争があります。

このように戦争や相続により領主が入れ替わる状態では、一般庶民にはどの国に自分が属しているか等はあまり関係ありませんでした。こうした環境では、人々の間に国家という概念は生まれないですし、ましてやナショナリズムは存在しませんでした。(近世との対比となるトピックです)

空前絶後のモンゴル帝国
この帝国は最盛期に東西は中国から東欧の一部まで、南はインド、東南アジア以外ペルシャを含む、広大な地域を版図としていました。ほぼ現代の中国がいうところの一路一帯や上海協力機構加盟国が含まれるエリアになります。

あまりに広大な領土に初代チンギス・ハンの子の代から緩やかにいくつかの地域にハン国として分割され、孫のモンケ、クビライの代で空前の繁栄の時代を迎えました。これだけの広大な領土を得ることができた背景には、モンゴル騎馬隊を部族集団からチンギス・ハンを頂点とする忠誠心の高い軍団に社会改革し、戦争の前に十分な事前調査を行い、情報戦(プロパガンダ)で敵の戦意喪失を促した上で、勝つべくして勝利しました。

1つの都市を破壊すると、そこから脱出した難民がモンゴルのプロパガンダそのままかそれ以上に各地に伝え、いくつもの都市が戦意喪失、無血開城したのが真相ですが、現在考古学的証拠以上の殺戮の伝承が今日まで伝えられています。

対して中国は西域や北東の騎馬民族と向き合う際の基本は「夷を以て夷を制す」です。ある民族が強くなると、近隣の次に強い民族に支援、相戦わせる政策です。宋は北部の女真族が力あるうちにモンゴル族に支援し、戦わせるべきだったのですが、周囲に目を配る余裕がありませんでした。大国といえど近隣諸国をしっかり観察・理解することは重要です。

しかし、戦争が終わり、クビライ・ハンの治世のうちに「モンゴル帝国」から「モンゴル株式会社」へ移行していきます。すなわち、長距離を往来する民族ならではの見方で、各地域の産物、技術は帝国内の他のどこかに需要があるはずと信じ、中国のものを中東へ、逆もまた然りと移植・融合していきました。例えば、織物では、サテン(中国泉州にその名が由来)が、植物・作物ではコメ、お茶は西へ向かい、中東のレモンは中国の広東の果樹園で栽培されるようになりました。

医者も中国・中東間で相互派遣され、現イランのタブリーズで中華・中東医療の病院が設立されました。各地の暦もバラバラなので、各地の暦や天文学が研究対象となり、これらの成果物の暦を印刷する印刷所も設置されました。すると、あまりに量が膨大なため、モンゴル語のアルファベットでの植字印刷を行い、効率化が図られました。また、広大な領土を管理するために算盤では立ち行かず、高度な数学知識が必要となり、中東、インドからも動員し、ゼロ・負数、代数が導入されました。

このようなヒト・モノ・技術がスムーズに往来できる背景には、単一の貨幣・紙幣(紙幣は中東では不人気のため撤収)が導入され、幹線道路と併せて駅伝制度が整備され、山賊・海賊は討伐されました。結果、当時のフィレンツェ商人は、モンゴルシナへの道は「昼も夜もまったく安全だ」と断言しています。さらに、牌子(パイズ)というパスポートとクレジットカードの組み合わせたようなもの(宿泊や交通手段が利用可能)が導入されていました。加えて、すべての宗教が保護されました。宗教間の争いを避けるには、「すべての宗教を国家権力の下に組み込んでしまう」*ことがモンゴルの解決策でした。

モンゴル帝国は自身の既成制度がなかったために、どこからでも喜んで優れた制度を取り入れて組み合わせ、問題が起これば理論ではなく現実に即して解決しました。何が一番効果的かを模索し、それを見出したときはほかの国にも広め、諸臣民に課す力もありました。

その結果、アレキザンダー大王のヘレニズムを超える、普遍的な文化と世界的な制度の基本が生まれます。「その新しい世界文化は、モンゴル帝国の終焉後もずっと成長を続けた。それが何世紀にもわたって発展し続けた結果、最初にモンゴル人が重点を置いた自由貿易、情報通信の自由化、知識の共有、政教分離、諸宗教の共存、国際法、外交特権が近代世界の基礎」*となりました。

そして、こうした果実をヨーロッパはモンゴルから輸入し、「ルネサンス」という名の下に享受し、ルネサンスの文人や冒険家はチンギス・ハンとモンゴル人を率直に賛美しました。
例えば、チョーサーは「カンタベリー物語」でチンギス・ハンを「あらゆる点でこれほど秀でた王者はこの領地のどこにもいなかった」と賛美していました。ところが、18世紀の啓蒙運動の時代になると反アジア思想が高まり、とくにモンゴル人に非難が集中します。例えば、「法の精神」でモンテスキューは「最低の奴隷的精神」とこき下ろしました。こうした時代認識がやがて20世紀の「黄禍論」につながっていきます。

一方、日本も同様にモンゴル帝国(元)からも多くを学び取ります。事実、明治以前では日元貿易が最も盛んで、この貿易・交流を通じ「いわば、日中韓をこえた文化・学術・思想・宗教・芸術・美術・生活様式の新局面が生ずる。茶道・能・書院造り、儒・仏・道三教兼通型の知的体系、漢文典籍とそれを模した五山版、それを日本風に消化した「抄物」など、日本文化の基層となるものは、ほとんどこの時とその前後に導入・展開したものに発している。」**もちろん、平安時代の国風文化と同様、日本化されていくのですが、これらが今日日本文化として認識されているものの大きな部分となります。しかし、これはあまり認識されていません。

はてさて、モンゴル帝国の恩恵に関する健忘症は、ユーラシア大陸の両端でなぜ見られるのでしょうか?

最後に、空前絶後のモンゴル帝国もクビライ後優れた後継者に恵まれず、黒死病といわれた腺ペストの蔓延により帝国内の交流を縮小せざるを得ず、ヒト・モノ・技術・情報を流通させることによって富の基盤を築いた帝国は、やがて各地域の王国として消えていきました。

*ジャック・ウェザーフォード著「パックス・モンゴリカ」参照。(以下モンゴル帝国の記述の詳細は同様。とても読みやすく、良書です。)

**杉山正明著「興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後」参照。

本コラムの執筆者================================

吉川 由紀枝

ライシャワーセンター アジャンクトフェロー

プロフィール:

慶応義塾大学商学部卒業。アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)東京事務所にて通信・放送業界の顧客管理、請求管理等に関するコンサルティングに従事。

2005年米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院にて修士号取得後、ビジティングリサーチアソシエイト、上級研究員をへて2011年1月より現職。

また、2012-14年に沖縄県知事公室地域安全政策課に招聘され、普天間飛行場移転問題、グローバル人材育成政策立案に携わる。




※当文章は著者の個人的見解であり、所属団体の意見を反映したものではありません。