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東京IPO特別コラム:「歴史の重み:近世から近代へ・大航海時代と覇権の変遷」

〜語られないものを視る眼〜


「歴史の重み:近世から近代へ・大航海時代と覇権の変遷」


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今回は「覇権は儲かりません」がテーマです。世界史から検証してみましょう。

覇権国の条件
通説では、ポルトガルとスペインが、後にオランダが、イギリスが覇権国となったといいますが、ではポルトガル、スペイン、オランダが覇権を獲得し、喪失した理由は何でしょう?

まずポルトガルは、ヨーロッパの中心から離れた僻地から、逆転の発想で大西洋へのアクセスが最も近い地の利を活かし、他国が行っていなかった新航路開拓の先鞭をつけることで、FMA(ファースト・ムーバー・アドバンテージ)を得たのでした。しかし、こうしたアドバンテージは船団と航海術だけの参入障壁が低く、他国が真似をし始めると失われます。さらに、ポルトガルという国がなくなってしまいました。すなわち、ポルトガル王室とスペイン王室が結婚し、実質スペインに併合されたのでした。後にスペインから独立しますが、覇権という意味では撤退です。

スペインも、ポルトガル同様FMA及び地の利を享受した国ではありました。しかし、以前お話しました通り、あまりに相続した版図が大きすぎたハプスブルク家のフェリペ二世は生涯ほとんど戦争に明け暮れたのでした。戦費のためせっかく中南米から送られた金銀財宝でも足りず、二回もデフォルト宣言をする羽目になったのでした。スペイン・ハプスブルク家に足りなかったものは、問題の解決方法は戦争ばかりではない(国王といえども、矛盾を抱え生きる術を学べ)こと、戦争をするにはそれを支える経済力やその必要性を理解する国王・財政制度が必要であること、経済力を育成する政策が打てなかったことにあります。実際、収入の2,3倍を戦争に費やした一方、このカトリック王はビジネス面で優秀なユダヤ人を追放し、外国の大学との接触を途絶し、軍艦ばかり作り商船を作らず、一部の商人が金を払えば貿易を阻害するような独占を認めた等々の失策が挙げられます。*

オランダは、宗教の自由を謳い、戦火を逃れイタリアのロンバルディア地方から逃げてきたユダヤ商人を多く迎え入れました。ヴェネツィア共和国発祥の銀行を発展させ、1609年に設立したアムステルダム銀行が両替、手形決済の中心地となりました。さらに、株式会社という継続的な組織が生まれ、株式市場も創設されました。国際金融センターの誕生です。

少し脱線しますが、アムステルダム銀行には貸付機能が追加されます。意外かもしれませんが、中東で誕生した三大宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)はいずれも利息を取ることを禁止しています。但し異教徒相手ならよいというところで、キリスト教圏内で少数民族のユダヤ人はこの点を逆手に取り、キリスト教徒に高利貸業を営んでいました。

この仕組みに関し、広瀬隆氏による解説は秀逸です。「ムハンマドの目的は、アラブ人社会の活性化にあった。活性化するためには、金という交換手段を有効に流通させればよい。(中略)インフレ社会で(中略)金をため込むのは、利息があるからだ。利息をなくしてしまえばよい。物価が上昇するのに、利息なしの金を抱えていれば損をするので、誰もが金を投資する状態に追い込まれる。かくして社会が活性化される。しかし、悪事への投資は、社会に害毒をまき散らすので、善良な行為にのみ投資を誘導しなければならない。」**カネは天下の回り物、いかに回転率を上げるかを考える点が、商人ならではの発想ですね。

しかし、ヨーロッパ=中東=アジア間での遠隔地との貿易や旅行(ヨーロッパから聖地エルサレムへの巡礼が流行)が発展していく中、現代に見られる金融商品は必要になります。そこでフィレンツェが栄華を誇っていた時代までは、この掟に抵触しないよう、イスラム教徒を真似て様々な金融商品・商法で実質利息を得ていた(実際イスラム教徒自身も、ヒヤル(奸計、策略)と呼んでいました)***のですが、オランダに至っては、宗教上の配慮が完全に失われました。

しかし、オランダ経済はスペイン・ハプスブルク家からの独立戦争等で疲弊し、十分な戦費を調達できず、最終的にナポレオン戦争でこれまた国家がなくなってしまいました。この戦火を逃れ、オランダの優位性の中核である金融機能はロンバルディアからのユダヤ商人と共に、対外貿易が盛んになりつつあったロンドンに移動していきました。(ロンバルディア人たちが多く金融業を営んだエリアとして、ロンドンのシティ(金融中心地)にロンバード街という名称に名残を留めています)

イギリスについては次回に回し、フランスが覇権を持ちえなかった理由も見てみましょう。フランスは今も昔も、ヨーロッパ諸国の中では国土も人口も大きい国です。確かに一時イギリスと覇権を争い得た場面もあるのですが、適切な財政と金融の仕組みがなかった点が致命傷でした。

日本にはない仕組みですが、金銭的に切羽詰まった国王が徴税請負人から将来ある地方から上がる予定の国税収入を前払いで受け取り(当然割り引かれますが)、徴税請負人が後にその地方の国税収入を徴収する、徴税請負人制度を取り入れていました。この制度下では、徴税請負人は定められた国税以上を徴収しがちで、民衆の怨嗟を集め、ひいては反乱に繋がりやすいです。(オスマン・トルコ帝国も末期には同制度を採用)この他、恣意的に不公平な重い直接税と間接税を商人に課し、官職の売買も公に行われ(まじめに働くより、悪代官になってボロ儲けした方がいい?)、民間セクターの資本を集めてしまい、健全な投資先への融資が滞ってしまいました。*

これらの歴史から、
1. 小国では覇権は維持できない
2. 国家財政制度がしっかりしていること(官僚制度も含む)
3. 資金調達力が優れていること(戦争はお金がかかります)
が覇権国の必要条件として挙げられます。

植民地管理コストを国家に押し付けたから覇権が生まれる
では、実際にヨーロッパはどれほどの富を得たのでしょうか?ポルトガルはモルッカの丁子(香辛料の一種)の15%以上をヨーロッパへ運んだことはなく、香辛料のほとんどは中国へ輸出されていました。それでもポルトガルにとり、アジア内交易はその利益の80%に相当しました。

例えば、ポルトガルの植民地(インドのゴア、マラッカ、マカオ)・日本間の一航海では3万5千クルゼーロの利益であったのに対し、リスボン・ゴア間の一航海でわずか1万クルゼーロの利益にしかなりませんでした。ヨーロッパを交えて交易するよりも、アジア域内貿易の方が遥かに儲かり、さらにインド州の維持費用の方が、インドからの直接収入よりも多い****という結論に達し、1660年ポルトガルは、賢明にも王女がイギリス王室に嫁いだ際に、持参金として現在のムンバイをイギリスに与えたのでした。

やがて、後発のオランダが参入し、マラッカ等の拠点も奪われていきます。その過程でオランダは、現地での軍事力を維持するためポルトガル式の現地商館設置ではなく、永続的な植民地(自国民プレゼンス)の必要性を理解しました。しかし、すぐに植民地は金食い虫であることが判明します。2つ大きな要因があります。一つは反乱です。商船団が持参した大砲数十門程度では追いつくはずもなく、反乱を鎮圧するための軍隊を常駐させる必要があります。もう一つは新興国が覇権を奪うための挑戦(戦争)です。(次回後述)

そこで、(英蘭)東インド会社の株主はこのコスト増について悩んだ結果、ツケは国家に押し付けることにしました。(現代でもよく見られる結論ですね)すなわち、世界中の自国民の生命と財産の保全は国家の責任という、新しいロジックを作り上げました。結果、英蘭で充実度の差はあれ、東インド会社の船団は海軍が守り、植民地在住の自国人やその財産を保護するため必要に応じ陸軍が常駐し、植民地は国家の領土として、自国官僚を派遣し、統治させました。

なぜこのような追加責任を国家が受け入れるのでしょう?王室を始め大貴族たち、ブルジョワ即ち国家運営者たちが軒並み東インド会社の大株主だからです。それまで新世界やアジア、アフリカへ渡った冒険者や神父たちが他殺されても、このロジックは生まれなかったのですから、ここでの「自国民」とは東インド会社の大株主であり、自国民の兵隊の生命を危険に晒してでも「自国民の財産の保全」が大事ということがよく分かります。さらに、貧困、過剰人口等の国内問題の解決策としての側面を強調し、全ての国民が利すると宣伝されました。

従ってイギリス海軍は、好き勝手に世界に広がっていく「自国民の生命と財産の保護」のため、七つの海でのパトロール義務を負い、そのために必要な世界の要所々々での寄港拠点を獲得・維持させられ、いつしか制海権という物々しい言葉になりました。(尤も、イギリスの場合、中南米の金銀財宝を積んだスペイン船を略奪させていたのですから、自業自得の感はあります)こうして、国家へのコスト転嫁が覇権コストを膨らませ、国家間競争に駆り立てました。(この点については次回後述)

つまり、儲かるビジネスには政府が関与させられることはありません。裏を返せば、政府が関与させられるということは、純然たるビジネスとしては割に合わないということなのです。事実、経済学の祖アダム・スミスも植民地は割に合わないと論じたそうですし、日本が植民地を持っていた頃経済学者であった石橋湛山も小日本主義を掲げ、日本の植民地は日本にとり赤字であると言っています。

アジアとヨーロッパの経済力バランスの反転の真相
それでもヨーロッパ勢は、アジアに対しなかなか経済的優位性を築けませんでした。「リオリエント」の著者フランク氏はこう記しています。「「世界の工場」は「自由貿易」を通じて、海外市場を征服した。しかしながら、その時にいたっても、イギリスの植民地主義は、インドへの自由交易を禁止しなければならず、中国を無理やり「門戸開放」させるため、アヘンを輸出するという挙にも訴えたのである。」****

では、実際大航海時代が世界にもたらしたものは何だったのでしょう?フランク氏の解説によれば、1750年のアジアは世界人口の66%を、世界生産の80%を占めた一方、ヨーロッパは世界人口の25%を、世界生産の4%以下を生産していたので、アジアはヨーロッパよりも生産性は高かったと言えます。****ヨーロッパと比較して温暖で土地の肥えたアジアでは、生活費が低く、人口は高く、低価格労働者が豊富にいました。これが、生産力の差の根源だったと思われます。例えば、東京の緯度は北アフリカ当たりに相当しますといえばイメージが湧くでしょうか。寒冷なヨーロッパ農業では、東南アジアのように二毛作、三期作ができず、年間収穫量が低いということは、アジアのように多くの人口、そして労働者を養えないということになります。

しかし、アメリカ大陸の発見により、ヨーロッパへ一定量の貴金属の流入が継続し、アメリカ市場自体が発展したことによりヨーロッパの(輸出)製造業全般が前進し、新しい分業と技術の改良を引き起こしました。

加え、「18世紀の後半、特に最後の1/3になって初めて、オスマン帝国、およびインド、中国の帝国の衰退傾向は加速した。衰退が最も時期的に早く、最も加速が強かったのは、おそらくペルシャであり、次いでインドが、次第に織物における競争優位を失い、18世紀の半ばを過ぎると地金の流れが逆転した。」すなわち、ヨーロッパでは18世紀後半、石炭価格が下がり、石炭を動力への移行が促進され、織物製造と蒸気機関での技術革新、改良が進んだ結果、生産が急拡大する一方実質賃金が低下しました。対して、インドでは石炭が高く、中国では低価格労働力が高く、動力移転が起きませんでした。

よって、ヨーロッパが新世界から得た金銀と新世界市場の発展により得た富及び促進された技術革新に支えられた上昇期とアジアの衰退期が交差した結果、ヨーロッパの優位性が史上初めて生まれたのでした。「アジアにとって足かせとなったのは、全般的な貧困でもなく、ましてや、伝統でも、なんらかの失敗などでも」なく、それまでの「成功が失敗をもたらしたのである。」****

 
この事実を日本に当てはめると、幕末の日本人は、この交差を経たばかりのヨーロッパに直面したということになります。日元貿易で先端技術を吸収し、金融業が発展し、大名・名主・豪商等の地域資本家(ヨーロッパの貴族やブルジョワに相当し得る経済力)が存在し、学校や寺子屋が盛んで高い識字率を誇り、それなりの技術発展を経ていた日本であれば、明治・大正期にある程度欧米に追い付けたということは私たちが考えているよりも「奇跡」ではないのかもしれません。

 
*ポール・ケネディ著「大国の興亡 上巻」
**広瀬隆著「世界石油戦争 上巻」
***「イスラームと資本主義」の著者ロダンソンは、以下のヒヤル例を挙げています。「わたしはテーブルの上のこの本を120フランで某に売るが、その支払いは1年後の契約である。だが、私はすぐに件の某から100フランで本を買い戻す。だから、わたしは本を手元に置いているわけであって、100フランを彼に与えて、1年後には120フランを受け取ることになるだろう。私は利子をつけて貸したのではなく、単に売買したに過ぎないのだ。」確かに面倒な契約ですね。
****アンドレ・フランク著「リオリエント」(大著ですが、名著です)

 

本コラムの執筆者================================

吉川 由紀枝

ライシャワーセンター アジャンクトフェロー

プロフィール:

慶応義塾大学商学部卒業。アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)東京事務所にて通信・放送業界の顧客管理、請求管理等に関するコンサルティングに従事。

2005年米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院にて修士号取得後、ビジティングリサーチアソシエイト、上級研究員をへて2011年1月より現職。

また、2012-14年に沖縄県知事公室地域安全政策課に招聘され、普天間飛行場移転問題、グローバル人材育成政策立案に携わる。

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※当文章は著者の個人的見解であり、所属団体の意見を反映したものではありません。