東京IPO

English

東京IPO特別コラム:「歴史の重み:イスラム・近代〜現代」

〜語られないものを視る眼〜



前回近代ヨーロッパに接し、イスラム世界での対応策は様々ありますが、その一つとして民族主義を選択したトルコのお話をしましたが、今回はサウジアラビアを見ていきましょう。

?

映画「アラビアのロレンス」では、現代の中東は理解できない

第一次世界大戦前後のアラブ世界といったら、まず映画「アラビアのロレンス」を想起されるでしょうか?(古い?)映画で描かれている通り、アラビアのロレンスことトーマス・ロレンスはアラブ人を扇動し、イギリス支援の下オスマン帝国に対し反乱を起こさせました。

しかし、アラビアのロレンスばかり注目していると、その後の歴史は分かりません。

 

なぜなら、その後の歴史を大きく塗り替えた人物、初代サウジアラビア国王のアブドルアジーズ・イブン・サウド(通称イブン・サウド)にはスポットライトをほとんど当てていないからです。そうなってしまったのは、イギリスの縦割り行政のせいです。

 

すなわち、英植民地省に勤務していたトーマス・ロレンスがヒジャーズのハーシム家を見出した一方、インド政庁はイブン・サウドを見出していました。そして、ロンドンでどちらの提案を信じるべきか検討したわけですが、当時声が大きかったのがたまたま植民地省の方だったため、イギリス政府は最初ロレンスの言を採用したわけでした。

 

一見ロレンスが推したハーシム家に栄華が保証されたように見えますが、実際にはほぼ三日天下に終わりました。第一次世界大戦後、確かに父親・長男がアラビア半島、次男がトランスヨルダン、三男がシリアの統治者になりました。

 

次男は大威張りで第一次世界大戦後の講和条約交渉の地ヴェルサイユ宮殿にまで出向きますが、仲介者のロレンス自身も傲慢で神経質なところがあったようで、大国首脳たちに見向きもされない状態でした。加えて、父親が強欲、傲慢で市民に人気がない上に、カリフを名乗るに頃には、イギリスもいい加減ハーシム家に嫌気がさしており、イギリスからの干渉はないと見たイブン・サウドが、ハーシム家を攻撃し、父親と長男はアラビア半島から追放され、亡命を余儀なくされました。

 

また、三男は早死にし、二代目の幼君をたてたものの、反英感情は抑えがたく、第二次世界大戦中英軍が駐留している間は鎮圧されていましたが、撤退後あっけなくクーデターにより滅亡してしまいました。

 

よって、石油の出ないヨルダン王国だけが、今日まで残っています。

さて、そんなハーシム家の夢を壊したイブン・サウドとは何者でしょうか?

 

アラブ人の結束に成功したイブン・サウド

イブン・サウドは18世紀に短命ながら誕生したワッハーブ王国の国王の末裔でした。家が落ちぶれてしまっていたので、若いころ非常に苦労を重ねた末、オスマン・トルコ帝国を宗主国と認めつつもアラビア半島のネジドというエリアを統治するまでになりました。

 

そこで、開墾後は自らの土地となる約束の下に、砂漠の入植地の開墾・発展に成功しました。

この事業を通じて、入植者たちを部族の枠を越えた「特権を持つ集まり」として結びつけることに成功しました。7世紀にモハンマドが宗教を使ってアラブ人を団結させたとき以来の快挙と言えるでしょう。アラブ人はなかなか部族を超えた結束が難しいようです。

 

ちなみに、ワッハーブ王国の名前に冠されているワハブ主義、ワハブ派について少し触れましょう。この頃イスラム教版宗教改革があちこちで誕生していきますが、アラビア半島ではワハブが主唱し、サウドの祖先とタッグを組んでワッハーブ王国内で広めていきました。但し、以前ご紹介したアフガーニーのようにイスラム世界全体に影響するほど広まったわけではありませんでした。

 

ワハブ主義のキーワードは、キリスト教同様「原点に帰れ」です。コーランにはないもの、例えば過去の偉人たちを神聖化し、彼らの偶像を作り、描き、敬うことを戒める等です。時代もちょうど近代ヨーロッパにイスラム界がうまく立ち向かえない責任をイスラム知識人や僧侶に求めていた頃ですから、イスラム教の純化を求める声も理解できます。

 

サウドも、祖先同様ワハブ派をサウジアラビアの国教に指定しています。しかし、リアリストとして実家が奉じているワハブ派を採用しているとはいえ、実力本位で一代にして王国をたてた人物ですから、別に宗教にその正統性を求めたわけでもなく、少なくとも対外的な場面で宗教が彼のリアリストとしての行動を妨げたことはないようです。(つまりは、サウドの言動にお墨付きを与える役割ということですね)

 

さて、対外的にはサウドは第一次世界大戦中イギリスと協定を結び、トルコから攻撃されたらイギリスが支援する代わりに、イギリスの同盟者を攻撃しないこととなりました。この時サウドはヒジャーズを攻撃したかったのですが、イギリスは同時にハーシム家と同盟を結んでしまい、踏みとどまらざるを得ませんでした。

 

しかし、第一次世界大戦後イギリスがハーシム家を見限っているとみるや、素早く彼らの地を奪取しました。そして当然全アラビア半島掌握に向かいたいところであり、最初に目を付けたのが、アラビア半島で最も繁栄しているイエメンでした。またもやイギリスが介入してきました。理由は、イエメンにはインドとイギリス間の重要な寄港地アデンがあり、イギリスの影響下に置いていきたかったからでした。

 

しかし、イギリス側もサウドの実力を認め、交渉の末イエメン、オマーン、ペルシャ湾岸のエミール(首長国)に手を出さない範囲においての領土を認めることになりました。(とはいえ、正式な領土となっていないものの、その外交は実質サウジアラビアの意向に沿う形をとることとなります)ここに、1928年サウジアラビア王国が建国・諸外国に承認されました。そしてこの時の取り決めが、そのまま現在のアラビア半島における地図そのものとなります。

 

石油利権バトルとイギリスからアメリカへの鞍替え

さて、中東の歴史を石油抜きには語ることはできません。サウドが建国した頃、英蘭仏間で石油利権の秘密協定、赤線協定がありました。これは、中東での石油開発を他の協定メンバーの合意なしに開発できないという取り決めでした。また、イギリス主導の国際石油カルテルがあり、この数社間で石油の売値と生産割当額が決められていました。

 

そんな状態のところへ、サウドが知らずにアメリカのガルフ石油に石油利権を与えました。当然イギリスは激怒し、ガルフ石油を強引にカルテルに入れ、サウジでの石油開発を妨害しました。そのため、ガルフ石油は経営難に陥り、同カルテルに参画していないカリフォルニア・スタンダード石油にサウジでの石油利権を売却しました。ここでようやく、サウジでの石油開発が可能となり、始まったのでした。(後に、カリフォルニア・スタンダード石油とテキサス石油が共同でアラムコを設立しました。)

 

そして第二次世界大戦中、サウドは自国内のハサが連合国側の補給基地として価値があるのではないかと考え、イギリスへ利用料を支払うならハサを補給基地として提供してもよいと打診しました。これに対し、チャーチル首相は傲慢だとして拒否しました。

 

一方、アメリカのルーズベルト大統領は自ら中東に出向き、米海軍艦上でサウドと会談を行い、ハサ空軍基地を5年間利用すること、及びアラムコと60年間(2005年まで)1バレル21セント(何と安い!)をサウジアラビアに支払い、かつ利権エリアを拡大することに合意しました。

 

この報に接したイギリスは、サウジアラビアがアメリカの勢力圏に移行したことを悟ったのでした。やがて、英米間で石油利権分割に合意が成立しました。すなわち、イラン、イラクを含むイギリス地区と、全アラビアを含むアメリカ地区とに。

 

加えて、石油業界でも再編成が行われ、結果として欧米石油会社は以下の利権分割で落ち着きました。すなわち、イラン:イギリス40、アメリカ40、英蘭14、フランス6バーレーン:アメリカ100カタール:イギリス23.75、アメリカ23.75、英蘭23.75、フランス23.75、個人5サウジ:アメリカ100イラク:イギリス23.75、アメリカ23.75、英蘭23.75、フランス23.75、個人5クウェート:イギリス50、アメリカ50中立地帯:アメリカ100中立地帯沖合:日本です。(単位は%)ちなみに、ここに出てくる個人とは調整役を務めた人物で、「5%の男」とあだ名されました。

 

この数字から、サウドとの会見を始めとするルーズベルト大統領の石油外交の跡が見られます。アメリカの石油会社がイギリス主導のカルテルに屈した時代と比べれば、大飛躍です。

一見アメリカの大統領が自国企業のために働いたように見えますが、実はルーズベルト大統領には別の思惑がありました。それは彼が得た第二次世界大戦の教訓からきたものでした。

 

すなわち、太平洋、大西洋を跨いで物量戦術で攻めたので当然なのですが、戦争はとても石油消費量が高い、よって今後の戦争に備えて、アメリカ国内の石油埋蔵量を枯渇させてはいけない、というものでした。その場合通常の国であれば、国内開発規制を設ければ済む話ですが、そこは自らの大口献金元であるモルガン財閥を攻撃するほどの度胸を持つルーズベルト大統領です。

 

彼はさらに思考を進めます。国内開発規制をいくら提唱したところで、すぐに石油業界が妨害するか、法成立したといっても、すぐに骨抜きにしようとするでしょう。であれば、中東の有り余る石油を大放出させればよい、しかも国内開発の採算が合わない程の低価格で。(考えることが大胆と言いますか、ダイナミックと言いますか、傲慢と言いますか。。。)

 

そんなルーズベルト大統領の構想と、主要都市の電化、道路網、鉄道網、航空網の建設・構築等サウジアラビア近代化プロジェクトへの資金がほしいというサウド国王の思惑とが、一致しました。とはいえ、石油取引で中東側がいかに不当に安い収入で満足させられていたかを悟る日は遠い未来ではなく、現代にいたるまで紆余曲折が待っているのでした。

 

* イブン・サウドの生涯については、ブノアメシャン著「砂漠の豹 イブン・サウド」参照。(とても面白いです)




 

本コラムの執筆者

吉川 由紀枝 ライシャワーセンター アジャンクトフェロー

慶応義塾大学商学部卒業。アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)東京事務所にて通信・放送業界の顧客管理、請求管理等に関するコンサルティングに従事。2005年米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院にて修士号取得後、ビジティングリサーチアソシエイト、上級研究員をへて2011年1月より現職。また、2012-14年に沖縄県知事公室地域安全政策課に招聘され、普天間飛行場移転問題、グローバル人材育成政策立案に携わる。

定期購読はこちらからご登録ください。

https://www.mag2.com/m/0001693665