東京IPO

English

東京IPO特別コラム:「歴史の重み:フランクリン・ルーズベルトという巨人 その2」

〜語られないものを視る眼〜


歴史の重み:フランクリン・ルーズベルトという巨人 その2


 

前回フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領(以下FDR)とウィルソン大統領とを第一、ニ次世界大戦への導き方という観点から比較する形で見ていきましたが、今回は世界恐慌後人々へ期待の与え方という観点から日本と比較しながら見ていきたいと思います。

?

世界恐慌後人々へ期待の与え方:日本の場合

日本の場合、1929年以前から経済はガタガタでした。第一次世界大戦時の好景気は、品質に勝るヨーロッパ製品が市場に出回らなかったからこそ生まれたものでした。当然戦後ヨーロッパが復興するにつれ、ヨーロッパ製品が市場に戻るや、日本製品のシェアは戦前水準に戻ります。結果生まれたのが、戦後恐慌と呼ばれる恐慌(1920年代初頭)でした。その後も、関東大震災による震災恐慌(1926年)、当時の蔵相の失言から端を発した昭和金融恐慌(1927年)が続きました。そこで、金輸出解禁(金本位制に復帰することで為替レートを安定化)・緊縮財政・デフレ政策を採用しました。これらの政策により、余剰生産を淘汰し、為替レート安定化により輸出を拡大することを狙っていたのでした。

 

しかし、ここに世界恐慌の煽りを受け、日本では昭和恐慌が起きました。金輸出解禁に向け日銀が準備した正貨が大量流出したばかりか、為替レート安定により期待した輸出も激減してしまいました。結果、中小企業へのダメージも大きく、金本位制を再度放棄し、円安の状態に戻し日本の輸出増大を助けました。またそれまでの緊縮財政から積極財政政策に転換し、赤字国債で国家支出を増やすことで、インフレを誘致し、2年かけて収束させました。但し、この施策のツケとして、軍事費増大も許してしまい、満州事変を始め関東軍の暴走の誘因にもなりました。

 

しばしば不況時には、財閥等一部の富裕層ばかりが焼け太ります。事実政府が円安を誘致するとみるや、財閥が為替操作で大きな富を手にするという場面もあり、貧富の差はますます大きくなっていきます。こうした事情を背景に、財閥と彼らに飼われ、弱者救済に充分な政策ができない政党に対し大衆の恨みが募り、五・一五事件やニ・ニ六事件が発生し、犬養毅首相や高橋是清蔵相、斎藤実内相等が殺害されるに至りました。

 

結果、五・一五事件以来、日本は民主主義を半分放棄し、首相は議会第一党党首ではなく軍人出身から、これまた国民から非選出の元老(首相経験者)たちが推挙する方式で選ばれました。理由は、国民から選出される議員の多くは一部の利権を保護することしか念頭になく、国家全体の将来を考えないとみなされた一方、軍人であればそうではなかろうという、はかない「幻想」からでした。

 

しかし、現実には職業軍人はそもそも官僚です。結局陸軍省と海軍省は、終戦に至るまで仮想敵国も一致を見ず、それぞれの仮想敵国に対する軍備を主張し、日本が賄いきれないほどの軍事予算を要求し、予算を獲得するために軍部大臣現役武官制を悪用し、中国大陸にて無断で軍事力の実力行使をしてきました。その戦術は政党議員が用いるものと何も違いはしません。テロ事件を起こした若い将校たちには、実家の貧しい農村が念頭にあったでしょうが、軍人首相らに政党議員以上に国家全体を見まわして大陸への戦争拡大よりも貧富の格差是正の方が優先課題だとして行動した人はいません。

 

確かに関東軍に引きずられる形で、軍部は満州という日本の新しいフロンティアを拓きました。当時新しかった飛行機や戦車などを求め、当初は財閥の反発から新興財閥となる鮎川義介(日産)等を招聘するものの、日本本土でもその要望に応えるのは難しいのに、ましてや場所が満州という諸インフラが整っていない地ではなおさら無理な相談でした。結局、旧来の財閥が関わらざるを得ず、軍と財閥がタッグを組み、日本本土内でも戦時経済、国家総動員体制への移行が進められていきました。

 

職業軍人が首相になろうと、弱者が政治から置き去りにされたままでした。その一方で「国家」への奉仕を義務付けられたわけですから、気分は沈んだままでしょう。

 

世界恐慌後人々へ期待の与え方:アメリカの場合

世界恐慌がアメリカを直撃したのは、FDRの前任であるフーバー政権時でした。当時、市民への救済措置を取るのは、連邦政府ではなく州政府だと考えられていました。そのため、そもそも以前から救済措置に向けた実績や担当省庁があるわけではありませんでした。とはいえ、広く州を跨いだ不景気ですから、フーバーダムという言葉があるように、連邦政府による雇用創出政策の立案はフーバー政権の下で進められていました。(実施するところまで政権を維持できませんでした)

 

しかし、あまりに救済措置への動きが悪かったため、住む家をなくしてしまった人々が公園や空き地にホームレスとして住みつき、「フーバー村」とまで言われるようになりました。(ニューヨーク市のセントラル・パークでも2000人を超える人々が住み着いたともいわれています)

 

こうした不人気な前任からホワイトハウスを引き継いだのが、FDRです。よりよい社会への導き方という観点から、FDRの特色は以下の5つに集約できます。

 

  • 連邦政府が国民生活の向上を考えること自体が、福音であった


今日の日本では当たり前に聞こえるかもしれません。しかし前述の通り、アメリカでは州政府の仕事と思われていた背景がありました。また、政府はその財源を税収に求め、かつ政府の役割の肥大化はそのまま組織の肥大化につながりますので、「大きな政府」となることへの反発が根強くありました。(これが、今でも共和党に強く根付いている考えの一つです)この概念と戦おうという大統領が誕生したこと自体、当時は喜ばしいことでした。

 

  • 世界恐慌の責任をモルガン等泥棒男爵らのせいにし、攻撃した


不景気の際に、まともに税金を払わず優雅な生活をしている富裕層は、常に国民の敵としてやり玉に上りやすいです。ただ興味深いのは、モルガンらがFDRの支援者であったことです。富裕層への攻撃でFDRが人気度を上げていることを受け、連邦議会でもモルガンを召喚し、吊るし上げられた結果、寿命を縮めたと言われています。今日に至るまで富裕層にたかる政治家が多いので、富裕層を議会に呼びつけること自体、非常な珍事です。

 

少し脱線しますが、こうした下地が、富裕層への課税を容易にしたことでしょう。「第二次世界大戦にアメリカが参戦すると、軍事費を調達するために所得税の課税ベースが広げられ、累進税率も強化された。所得の再分配が積極的に進められ」*ました。そして、「少数の持てるものと大多数の持たざる者からなる社会は一変した。国の歴史上最大の―まさにただ一度かぎりの―下方に向けての所得の再分配によって、中産階級の国が生まれていたのだ。アメリカ国民の半数−賃金等級表の下の方に属する人々−の所得は倍増し、上から20%の人々の所得は50%そこそこしか増えなかった。下半分に属する稼ぎ手たちは、国の所得全体に占める取り分が16%増加したのに対して、最上部の人々は6%減少した。結果として「何十年もの間存在していた社会的経済的平等を妨げる様々な障害は、大幅に軽減されるか、あるいは完全に打破された」と社会史研究家のジェフリー・ペレットは観ている。」**

 

  • ニューディールと称して、新しいことに色々挑戦した


前任から引き継いだ雇用創出計画を引き継ぎ、フーバーダム建設の他、様々な事業に着手しました。本人の記者会見時の言葉を使えば、こうなります。「ドクター・ニューディールはいくつかの治療薬を処方した。銀行預金を保証するための連邦預金保険会社(FDIC)、住宅を差し押さえから救うための住宅所有者資金貸付会社(HOLC)、証券販売を真正なものにするための証券取引委員会(SEC)、最低賃金と最長労働時間、年少者労働の撤廃、失業保険、社会保険、労働者を守るためのワグナー法(労働関係法)、そして失業対策事業、PWA(公共土木事務局)、WPA、CCC(市民自然保存部隊)、NYA(全国青少年局)などの治療薬だ。(中略)10年前の病気が治療されるのに数年かかったのです。」**

 

ニューディール政策が全部よかったわけでは必ずしもなく、恐慌以前の状況に戻るには第二次世界大戦まで待たねばなりませんでした。最終的にアメリカ経済を復活させたのは、2つの要因です。一つは第二次世界大戦向け軍需品の大量需要であり、それがもたらした完全雇用でした。もう一つは、その軍需品工場を目指してそれまで人口過多であった農村から都市部への大量移動でした。結果、「30年代の農業不況はついに打開されて、地元に残った農民の利益は過去最高を記録」**したと言います。

 

効果がすぐ期待通りに必ずしも出なくとも、人々に希望を与えるという意味では好ましく映ったのではないでしょうか。

 

  • コミュニケーション能力が高かった


「炉辺談話」という言葉が有名ですが、大統領がラジオを通じて、当時の問題やそれらに対する政府の取り組みを分かりやすく国民に語り掛けていました。金曜の夜にも拘わらず、国民のほとんどは外出もせず、家でラジオを囲んで聞いていたため、映画館ががら空きであったともいわれています。そして、今日でもFDRといえば、コミュニケーション能力が高い大統領として多くの大統領に記憶されていると言われます。

 

今日の方がメディアは発達していますが、こうした光景を作り出すことは難しいのではないでしょうか。

 

  • エレノアという社会活動家兼ファーストレディーをうまく活用した


FDRは39歳で小児麻痺にかかり、以後車いすの生活を余儀なくされました。この大病により、FDRは忍耐を強いられ、より深い洞察を以て偉大な大統領となったともいわれています。

 

今でもアメリカは東京ほどバリアフリーではありませんから、車いす生活は大変であったろうと想像されます。かなり行動範囲を制限されたため、妻エレノアに彼の耳目として国内外の各地へ視察に送り出しました。本人も社会奉仕活動に興味が元々あり、夫が信頼する洞察力も兼ね備えていたことから、実に色んなところへ行き、視察内容を夫に報告しています。もちろん上辺の周囲の報告を鵜呑みにするのではなく、台所の鍋の中身やトイレの衛生状態を自分の眼で確認する位の徹底ぶりでした。

 

ルーズベルト大統領夫妻は元々富裕層出身で、社会的弱者への同情が強くありました。夫はニューディール政策で弱者救済に向けての措置を検討する際に、妻の偽りない、信頼できる報告を聞きました。不幸にして第二次世界大戦に向けて、夫は軍需品増大のため大企業と和解し、態度を軟化せざるを得ませんでした。しかし、FDR自身も本来はおかしいと考えていたのでしょう。夫の政治的許容範囲にある限りにおいては、妻が今日リベラルの走りともいうべき、アフリカ系を始めとする人種差別や男女差別を改めようとする言動に干渉しませんでした。

 

実にエレノアは、驚くほど活動的です。例えば、女性の地位向上のため、女性記者だけを対象とした記者会見をしました。新聞各社が、女性を記者に雇わざるを得なくするためです。また、戦地に送られる夫の代わりに女性が働かざるを得ない状況を見越し、様々な職業の女性に会うために視察を重ね、毎週コラムを執筆し、その結果や感想を公表するだけでなく、大企業の重役等へ工場内に託児所の設立を働きかけました。その結果カイザー造船工場のスワン・アイランド託児所が実現し、ここでの成功がその他軍需工場においても同様の措置が取られることになりました。「働く母親の必要に決して十分に応じることはなかったのだが、戦争の終わる前に約5000万ドルが保育に費やされ、新たな保育所建設費に300万ドル、運営費に4700万ドルが充てられた。1945年の夏には、150万人以上の子供たちが保育所に託されることになるのである。」**

 

アフリカ系アメリカ人への人種差別に関し、最初のエレノアの成功は、海軍の一般兵士というキャリアへの道を切り開くことでした。その後もアフリカ系アメリカ人のリーダー達と会談する場をいくつもホワイトハウス等で設け、彼らの言葉に耳を傾ける姿勢を崩しませんでした。ちなみに、こうした姿勢が多くの黒人を「リンカーン」の党、共和党からFDRの党、民主党へ鞍替えさせ、今日まで続いています。

 

その後もこの問題が注目を浴びます。工場での職を求め各地から大挙して都市部に流れ込んだ結果、そこでは住居、通勤、職場、レクリエーションの場を白色・有色の区別なく共有せざるを得ない状況がそこかしこに発生し、白人が拒否反応を示した結果でした。フィラデルフィアでは、アフリカ系アメリカ人が白人と同様の仕事をすることで揉め、それが工場への通勤妨害、あるいは白人労働者によるストライキ等に発展し、結果として軍需品生産力の低下を招く事態に至りました。そこでFDRが大統領令を発し、その都市の全交通手段を陸軍の支配下に置き、強引にストライキを終えさせました。

 

ただ、半ば強制的に肌の色の異なる人々が同じ職場で働くにつれ、一部ですが意外に同僚意識が芽生え、白色・有色に関係なく人間としての交流が増えていったともいいます。少々後の話ですが、こうした動きがきっかけで、次の世代では、公民権運動として花開くことになります。

 

この他、戦後を見据え、1943年に早くもFDR政権は、帰還する復員兵向けの教育や訓練を支援する復員兵援護法(GI法)の制定を要請したことも忘れてはいけません。

 

もちろん、すべての面においてエレノアの努力が実ったわけではありませんでした。エレノアは、日系人収容所にも視察し、アメリカ人に選択の自由を与えないのはおかしいと訴えましたが、夫は何かしらの隔離が必要だと感じたため、成功しませんでした。それでも、1,2年かけて他に職場を見つけたら収容所から出ていくことができるように規則を変え、兵役等の形で全体の約1/3が出所できたと言います。ちなみに、この変更を活用し、兵士として勇敢に戦った二世がいます。日本政府が長い間お世話になった、ダニエル・イノウエ故上院議員です。

 

また、ユダヤ難民も救えませんでした。ナチス政権時当初、ユダヤ人は追放の対象であって、殺戮の対象ではありませんでした。しかし、ナチス・ドイツ以外の欧米はユダヤ人受け入れに消極的でした。やがてナチス政権が東欧へ版図を広げるほど、ユダヤ人比率が高くなっていきます。そこで、殺戮対象にされてしまったのです。

 

一方、反ユダヤを唱えていても、まさか殺戮工場まで作り、効率のよい大量虐殺を行うとは思っていなかった欧米は、断片的ながらも伝わってくる実情が信じられませんでした。そのため、せっかくヨーロッパからアメリカへ逃げてきたユダヤ人を乗せた船からユダヤ人を受け入れようとせず、ヨーロッパへ引き返さざるを得ず、多くはアウシュヴィッツ収容所に送られたと言います。ようやく、FDR政権は1944年にユダヤ人を含む難民受け入れに舵を切りましたが、遅すぎる観は否めません。

 

しかしFDR夫妻最大の敗北は、軍産複合体との戦いでしょうか。前回大企業が大量の軍需品を製造する代償として、大企業の寡占、すなわちあらゆる重要な契約のドル換算価値の3/4を大企業56社が占めるという状況をつくりだしました。そして、膨大な軍需品需要を上回るほどの生産力を手にした結果、新たな課題が見えてきます。

 

「戦時生産局の長官ドナルド・ネルソンは、政府が平時経済への円滑な移行を保証するための方策を計画するために、再転換に着手するときが到来したと主張した。第一段階として、ネルソンはもはや戦時生産に必要の内アルミニウム、マグネシウム、その他の原材料使用に対する制限の解除を提案した。そうすれば戦時の仕事がなくなった中小企業は、市民経済で必要な学校、病院、鉄道車両、電気機器等の建築や製造が始められる」。**

 

しかし、軍は戦争終了までは手綱を緩めたくはなく、また大企業も反対しました。理由は明快です。「中小企業は戦争機構の主要な歯車ではないので、より容易に民需品生産に転換できたからだ。再転換への戦いで危機にさらされているのはアメリカ経済の将来そのものだったのだ。大企業は戦時生産を支配していたように戦後の生産も支配する決意だった。もし中小企業と自営業者が平時市場における競争で有利なスタートを切ることが許されるなら、既成の企業体制−100社以内の大企業がすべての物品とサービスの2/3以上を生み出すという体制−が転覆するだろう。」**

 

軍の意向を重視せざるを得なかったFDRは、「戦争の中の戦争」として知られるこの再転換における戦いに道を譲らざるを得ませんでした。

 

今でこそ当たり前であっても当時は当たり前ではなかった時代に、エレノアは人種差別や男女差別をなくそうと講演し、ファーストレディーの行動を報道するメディアを連れ農民、工場労働者(いわゆるブルーカラー)、出征中の兵士といった庶民の中に率先して入って話を聞き、コラムを執筆しました。当時からすれば極左とも思われるリベラルぶりに、当然批判の声は喧しかったといいます。

 

とはいえ、戦争に入り、戦争準備や作戦等に注力せざるを得なかった夫に対し、妻はともすれば見過ごされそうな女性や有色人種たちへの配慮を忘れないように言い続けました。彼女は、「大統領が戦争に勝つために合衆国内のさまざまな勢力を統合する必要があることは十分理解していたが、旧秩序(大資本による独占的支配)が温存されるくらいなら、この戦争は勝つに値しないと強く主張したのである。」**

 

 

このようなリードをされたら、異例の4選も頷けます。そして、こうした相手と日本は愚かにも戦っていたことを忘れてはいけません。

 

 

*佐藤千登勢著「フランクリン・ローズベルト」

**ドリス・カーンズ・グッドウィン著「フランクリン・ローズヴェルト」

 




 

吉川 由紀枝???????????????????? ライシャワーセンター アジャンクトフェロー

慶応義塾大学商学部卒業。アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)東京事務所

にて通信・放送業界の顧客管理、請求管理等に関するコンサルティングに従事。2005年

米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院にて修士号取得後、ビジティングリサーチ

アソシエイト、上級研究員をへて2011年1月より現職。また、2012-14年に沖縄県知事

公室地域安全政策課に招聘され、普天間飛行場移転問題、グローバル人材育成政策立案に携わる。

定期購読はこちらからご登録ください。

https://www.mag2.com/m/0001693665