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東京IPO特別コラム:「宗教を考える」

〜語られないものを視る眼〜


「宗教を考える」


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「宗教」という言葉の意味
辞書に訳語が載っているからといって各言語で言葉の定義が同じとは限りません。そして、それは宗教によく当てはまります。


日本であれば、宗教=個人の信仰と理解されているように思います。しかし、英語の場合、Religion=個人の信仰+道徳観と理解されています。英語だからというより、英語を元々話す人々が持った宗教観がそうだから、と考えたほうが正しいでしょう。

例えばこんなエピソードがあります。明治時代、新渡戸稲造はアメリカ人の妻に、「日本人には宗教がないのに、なぜこんなにも礼儀正しいのでしょう?」と聞かれました。そして、夫の答えが、「武士道」という本でした。彼女にすれば、何も宗教を信じていないとは、道徳観もない、野蛮な人という位置づけになります。これに対し、「武士道」の中で、武士道の背後にある儒教の考え方が日本における道徳観に相当する、と回答したわけです。

少し脱線しますが、「無神論」という言葉は要注意です。これは、積極的に神という存在を否定する考え方で、宗教を持っている人々全般に対し大いなる意見の相違を持ち、暗に喧嘩腰であることを意味します。特定の宗教を持たないだけで、神の存在そのもの、あるいは人間の力をはるかに超越した自然、みえない力といったものを信じている場合には、使わない方がいいでしょう。とはいえ、どうしても特定の宗教に入っていないのに、何かしらの宗教への所属をいいたくないという場合は、特定の宗教は持たないが、スーパーナチュラル、スーパーヒューマンな存在は信じると言う方がいいでしょう。長いですが、無用な口論をするよりよいかと思います。

さて、この道徳観には二つの要素が含まれています。一つは、良き隣人であるための条件、即ち殺人や窃盗は罪である、他人に優しくあれ、中庸(バランス)が肝要等です。宗教がこれだけであれば、世の中に宗教によるいざこざはないでしょう。

しかし、もう一つ大事な要素が、それを作った人々の民族性、地域性、歴史に根付いた考え方です。いい意味でも悪い意味でも、それぞれのキャラクターが色濃く出ます。

宗教のキャラクター
例えば、日本の神道では、神の数は八百万、最高神は天照大神ですが、特に強いリーダーシップを出すわけでもなく、年に一ヶ月をかけて諸々の会議のため出雲に集まるといいます。(文字通り神無月です)強いリーダーが嫌いで、会議が大好きな日本人、そのままですね。(一ヶ月も会議している神の話は著者の知る限り他にありません)

一方、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はいずれも唯一神(他の神は存在しない、崇拝してはならない)というほど強いリーダー像です。一人のリーダーの下にまとまれず、船頭多くして船山に登るようなことがあれば、命取り(特に集団で砂漠の真ん中で迷子になったときには、GPSがない時代文字通り死にます)です。砂漠の中で生まれた宗教ですから、強いリーダーが必要と思われていたのでしょう。

ですが、それぞれの歴史は異なりますので、それぞれに性格は異なります。ユダヤ教は、2000年間国家を持たず、流浪の貧民が主体でした。苦しい歴史により冷徹さが求められたせいか、旧約聖書にはユダヤの民がヤハヴェ神にその指示内容について質問する場面が登場するくらい、ロジックを鋭く追求する性格が見えます。

一方、ユダヤ教をベースにしながらも選民思想を排除し、ローマ帝国やその後のヨーロッパ諸国の国教となったキリスト教は、その時代時代の政治に求められるがまま、戦争を是認し、十字軍を呼びかける等好戦的になっていきます。また、神の全知全能さを証明するため、おそらくイエス・キリストも言ったのか不明な天地創造から始め様々なフィクションを体系化していく辺り、ロジックを重視し、トップダウンで物事を考える性格が見えます。(但し、その結果、ルネッサンスの頃より科学による発見と矛盾が生じ、科学者を弾圧する愚挙に出ましたが)

イスラム教の場合、ムハンマドの死後イスラム教指導者がカリフとして国を統治し、政府としての指導と教義が混在しやすい状況であったためか、一番実生活に関する規律が多いようです。例えば、食事制限はユダヤ教や仏教でも見られますが、一般信徒の女性の服装に関する規律まではありません。また、後発宗教を意識してか、他宗教との共存に関する規律もあります。キリスト教(特にカトリック)国ではユダヤ人の迫害や追放が頻発しましたが、イスラム圏では人頭税(ジズヤ)を払えば問題なくその地で暮らすことができます。(政府当局としては税収入が増えて嬉しいといいます。)よく「コーランか、死か」というスローガンが言われますが、これはキリスト教徒側のプロパガンダで、攻撃してこなければ、殺すようなことはなかったようです。この辺りのプラグマティズムは、商人が多かったアラブの民ならではの感覚のようです。

では、仏教の場合、元王子が作った、自然との調和の中での人間のあり方(悟り)を教えていますので、変に知りえようがない天地創造の話もなければ、その教えがなぜ正しいかを説明する難しいロジックもありません。元々権威を持っていた人は、自ら悟ったこと以上に説得性強化のため尾ひれを付ける必要性を強く感じなかったのでしょう。賢しらなロジックではなく、感じることを重視する点も、ガチガチに理詰めでいかないアジア人の柔軟性のように思います。

そのため、仏教ではきかないがキリスト教では問題になることがいくつか生じます。同性愛について、仏教的感覚ならそう生まれついたのなら、そういう生き方もあろうとなるでしょうが、キリスト教は禁止といいます。おそらくは誕生当初貧しい人々が想定信者ですから、子孫を作ってもらわねば信者が死に絶えてしまいかねないとの配慮から生まれた規律でしょう。しかし、その前提条件が崩れたのなら新しい解釈を作ればよいのですが、綸言汗の如しというところでしょうか。

また、妊娠中絶についても、仏教ですと水子供養という寄り添い方をしますが、キリスト教では胎児の段階から人間なので、基本的に殺人という扱いになります。(アメリカ政治用語では、妊娠中絶反対をプロ・ライフ、容認をプロ・チョイスといい、大統領選挙時にはよく激論が交わされ、当初尖っていた候補がいつの間にか歯切れの悪いことをいうようになります。)

宗教と戦争が結びつく理由
宗教が戦争と結びついてしまう理由としては、強固な組織化とそれを可能にする求心力があります。宗教が成熟するに従い、組織化していき、本来の宗教とは離れて組織の利益(政治力、領土(縄張り、勢力圏)、信徒、寄付金等)最大化に動きます。ここまでくれば、人間同士の所業となります。

他宗教や他宗派との縄張り争いは多々あります。例えば、キリスト教内ではプロテスタントが誕生すると、カトリックとプロテスタントとの間で戦争が起き、フランスのユグノー戦争が有名です。ちなみに、プロテスタント国が誕生していくにつれ、カトリック内で危機感が生じ、アジアや新大陸(南北アメリカ大陸)へ宣教師たちが新規市場開拓(宗教用語では布教)の旅に出ました。イスラム教では、スンニ派とシーア派の対立が昔からあり、今日でも和解に至っていません。

宗教間でいえば、キリスト教徒が中東のイスラム勢力に侵攻した十字軍が有名です。日本でも戦国時代、織田信長の前でキリスト教宣教師と高名な仏僧が宗教論議を行ったといいます。神が創造主なので、自然現象は神の御心に須らく帰属するとするキリスト教が、外国の元王子が悟りで得た宇宙観を打ち出す仏教にロジックの点で優れているとして勝利しました。(但し、元々仏敵である織田信長が判定者である点と、キリスト教の教義にはなく、当時日本では知られず西洋で躍進中の天文学の知識を宣教師が駆使した点において、必ずしもフェアな論戦ではなかったようです)この後仏教側は南蛮寺の追放を朝廷へ猛烈にロビー活動を行いました。

そして、戦いは宗教者どうしだけとは限りません。例えば、カリフ時代のイスラム国家やイタリア分裂時代の教皇領、日本では戦国時代の本願寺等はその強固な組織力を武器に、信徒を兵にするか傭兵を雇うか等の手法でその領土、影響力を維持・拡大しようとしました。その過程で世俗の近隣諸国、領主との戦争があったことは言うまでもありません。

つまり、宗教と国家の間の縄張り争いは、政府の安定性にかかっています。ガバナンスがしっかりしていないと教皇領のように国家運営までしてしまいます。そこまででなくても、政府が宗教にその正当性を依存しているような場合、宗教が政治に介入してきます。逆に強い政府があれば、政教分離(宗教を政治から閉め出す)も強く主張でき、財産没収や免税等の特権剥奪も強行できます。

例えば、ヨーロッパでは国家として王権を絶対化する過程で、中世時代まで王と教会が最高権威として並び立っていたものが、少なくても国内においては王権の下に集約されました。ここにようやく統治権と外交権を国家が持つという主権国家体制(ウエストファリア体制とも言います)が誕生しました。

日本でも、聖徳太子から聖武天皇の頃まで天皇の権威を外来の仏教で補強したツケで、僧侶たちの政治力が増大し、弓削道鏡といった怪僧が跋扈するに至り、桓武天皇は平安京遷都によってその影響力を削ごうと努力しましたが、完全に排除できず、平家物語では後白河法皇が意のままにならないものの一つに「山法師」を挙げています。逆に武家政権が誕生し、仏教に権威付けを依存しなかったために、それまでの影響力は衰えていきます。
そしてこうした原則は現代でも通用します。911を始めイスラム系テロが発生し、一定の支持を集め持続性がある理由は、いわゆる不安定な弧における弱いガバナンスの地域に拠点(聖域)を設けられる点、欧米社会に移民したムスリム系の人々の中にくすぶる差別感や長期的な失業状態への不満に政府が適切に対応しない・できない点が大きいと考えます。

結局戦争するのは、人間であり、神ではありません。

 

 

本コラムの執筆者================================

吉川 由紀枝

ライシャワーセンター アジャンクトフェロー

プロフィール:

慶応義塾大学商学部卒業。アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)東京事務所にて通信・放送業界の顧客管理、請求管理等に関するコンサルティングに従事。

2005年米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院にて修士号取得後、ビジティングリサーチアソシエイト、上級研究員をへて2011年1月より現職。

また、2012-14年に沖縄県知事公室地域安全政策課に招聘され、普天間飛行場移転問題、グローバル人材育成政策立案に携わる。




※当文章は著者の個人的見解であり、所属団体の意見を反映したものではありません。