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東京IPO特別コラム:「歴史の重み:古代」

〜語られないものを視る眼〜


「歴史の重み:古代」


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バイデン政権誕生以後対中政策が緊張を孕んでいるように見受けられます。このような状況を受け、今後の米中関係が案じられると思われている読者も多いのではないでしょうか?

さて、著者にはここしばらく温めている仮説が以下2つあります。
「グローバル化が進む今日世界史が日々紡がれていますが、歴史からくみ取る教訓は国ごとで異なるのではないか?(例えば加害者と被害者の立場で同じ出来事を経験していても、そこから学ぶ教訓は異なりますよね?)、さらに教訓の内容が異なるであろうにも関わらず、相手も同じ教訓を引き出しているに違いないと錯覚を起こしているかもしれない(普通同じ出来事を経験した同世代の人間として同じ教訓を得ているはずだと思いやすいですよね?)、という考えをベースにし、

1. 中華人民共和国の外交は他国の真似が多く見受けられるが、次の政策や方向性が読めるのではないか?







 

例えば、中国は台湾外交の大事な柱を2つ真似ています。一つは台湾が1971年国連での議席を中国に譲った後開発援助外交で中南米諸国を中心に台湾を独立国家として認めてもらっていました。やがて中国も同じように開発援助外交で台湾を独立国家として認めている国家へ援助を与え、「一つの中国」を認めてもらう、つまり台湾外交を覆すよう動きました。


また、台湾は国連での議席の喪失を受け、ワシントン議会へロビー攻勢をかけ、大統領の拒否権を許さない2/3以上の賛成票を以て1979年台湾関係法を成立させました。この法律は一方的に台湾を防衛する義務をアメリカに課す、実質的に台米同盟のようなものです。ここで、中国はアメリカ民主政治においては、ホワイトハウスのみを相手にしていてはいけないと学習し、やがて同様にワシントン議会へのロビー活動を展開していきます。その予算のかけ方が桁違いであるため、台湾も脱帽状態といわれています。


今世紀に入ってからは、真珠の首飾り政策(南シナ海からペルシャ湾までのエネルギー輸入ルートの中国船航海安全のため、ミャンマー、パキスタン、オマーン等要所要所の港湾に影響力を確保)、上海協力機構(中露、中央アジアをコアにした軍事上の協力強化を狙う)やアジアインフラ投資銀行の創設が目を引きます。これらは、それぞれ、欧米が作り上げた、アメリカの軍事基地ネットワーク、NATOや日米同盟等の同盟ネットワーク、アジア開発銀行をモデルとしたように見受けられます。






2. アメリカと中国が互いの意図を読み誤らないか?






一国の政策担当者なら多少なりとも歴史から様々な教訓を引き出し、相手の思考を理解するものではあります。特に中国人はその5000年という歴史から教訓を学べば十分という自負があるかもしれません。しかし、あまりに政体が異なる国どうしなので、そもそも論的な部分で認識がずれる可能性があります。(上記の中国が台湾関係法を阻止できなかったのも一例でしょう)







上記仮説をこれから検証していきたいのですが、そのために一度世界史をラフスケッチしたいと思います。ここで断っておきますが、あくまで上記仮説を検証するために必要な程度であり、時系列に忠実に記載するとは限りませんし、あまり関係がないと思われるテーマについては省略していきます。

古代:古代ギリシャ・ローマVS中国
欧米人のエリートが学ぶ古代ギリシャの歴史は、国際関係、特に同盟の盛衰と政体を学ぶ場です。アテネやスパルタ等の有力都市国家等がペルシャからの遠征の前に同じギリシャとしてまとまり(コリントス同盟)、共に戦いました。しかし、最終的にペルシャとの戦争を終結させたアテネが強大となるや対アテネ同盟(ペロポネソス同盟)が結成され、アテネ側も同様に同盟国を募りました。(デロス同盟)そして互いが戦うことを望んでいないのに、小さな摩擦から全面戦争(ペロポネソス戦争)に発展しました。

この過程の中では国家の発展に対する近隣諸国の妬みや疑念、さらには疑念が疑念を呼び、対立構図が生まれやすいことを教えています。また、同盟国をどれほど信頼してよいものなのかを考える上で示唆を与えてくれます。

一方、古代中国も、秦の始皇帝が統一するまで多くの王国が興り、合従という対秦同盟が生まれ、秦側につくべきだとして連衡という秦を中心とする同盟が対抗して生まれ、合従を切り崩していくという、古代ギリシャにみられる国際関係を同じように経験していますので、この点については分かり合えるかと思います。

しかし、政体という観点からは大きな違いがあります。中国は王国・帝国の一形態のみを経験し、清滅亡までの歴史には王朝(その寿命は約300年)の興亡か戦乱(群雄割拠)時代しかありません。アジア系故に力に素直に従ってしまうのか、力ある者、その及ぶ範囲内を治めるという論理に挑戦する試みがなされていません。

一方、古代ギリシャは、君主制のほか、民主・共和制も試みています。そもそも個人と国家との関係を議論するところから始まっています。その中で、市民が話し合い(政治への参加)、軍役を負います。話し合いの結果、リーダーを永代君主とするか、期間を区切った形(任期)での統治を行うか、それぞれの結論の下実際に統治が行われました。また、興味深いのは、陶片追放という制度があり、年に一度僭主(民意の同意なく王様になろうとする人)になりそうな人物がいるか投票(陶片にその者の氏名を書く)し、一定数の票を得た者は10年間その地から追放されます。ここから、いかに最初は善意な人物とみられても、その後僭主として社会に害を及ぼすリスクに対しいかに敏感であったかがしのばれます。(実際このリスクは、ローマ帝国を始め世界史の中で幾度となく顕在化します)

但し、注意すべき点は、非常に時間がかかったと思われる政治への参加に市民がしっかり関与するには、市民には奴隷が何人も持っていたから成り立っているという前提があります。つまり、日々の労働から解放されている市民だから、政治に参加し、さらに自由な発想で哲学を生み出す余裕があったともいえます。

一方、中国では孔子、韓非子を始めとする諸子百家が政治思想をいくつも発表しています。戦乱期の古代中国で諸国の王への献策として考えたという背景より、王がいる前提で、良い社会とは何か、法治・人治の是非等が検討されています。(なお、中国内では中国に哲学があったのかという議論がなされています。*)

ただ、政治思想を中心に王朝運営を考えていただけあって、ローマ帝国でさえ作り上げられなかった統治装置が中国にはあります。それが、中央政権下の官僚制度です。唐の時代に導入された科挙制度から儒教に裏打ちされた教養をベースとしています。こちらは近世ヨーロッパとの対比で後に触れたいと思います。

しかし、残念なのは、せっかく世界に先駆けて様々な発明や技術を持っていたにも拘わらず、王朝の滅亡や長い戦乱期のためか、発明や技術の基礎理論部分が継承されず、後世の人々は先人の通りに製作できても、応用・発展させられないと、19世紀フランスの優秀な政治学者トクヴィルが指摘しています。**(これに対する中国人の反応を伺ったことはないのですが、気になるポイントではあります)

では次に、ローマ帝国に話を移しましょう。

元々都市国家であったローマは、その質実剛健を美徳とするローマ市民によるローマ軍の軍事力を武器に領土を広げ、共和制から帝国になっていきます。領土拡大等により終身独裁者となったカエサルは、皇帝になろうとしているのではないかと疑われ、暗殺されてしまいます。(陶片追放制度があればよかったのに)その後甥のアウグストゥスが政敵を次々と倒しますが、カエサルの最期から学習し、ひたすら慎重に謙虚な姿勢を崩さず、自発的な元老院の任命を渋々受諾する形で皇帝となり、皇帝の地位及び帝国経営の基盤を安定化させていきます。

すなわち、ヨーロッパ全土を属国化・搾取する形で栄華を誇る(帝国主義の原型です)わけですが、搾取により生活を営むようになると、元老院を含めローマ市民に質実剛健さが希薄化し、堕落していきます。やがて現在のドイツをはじめ広大な版図のあちこちで反乱がおき、もぐらたたきのように鎮圧部隊を派遣することの繰り返しが頻発します。帝国を東西に分割することで帝国経営を立て直そうとしますが、西側は反乱軍がローマを屠るまでになり、事実上滅亡します。東側はもう少し生き延びますが、オスマン帝国の攻撃に耐えきれず、首都コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)は陥落します。

なお、民主・共和制の盛衰と個人と国家との関係の議論は近世ヨーロッパと建国時のアメリカにおいて再び触れたいと思いますので、ベースは古代にあると覚えておいてください。

最後に、古代の貿易を見ていきましょう。シルクロードをすぐに思い浮かべる方も多いかと思いますが、このシルクロードを一人の人間が中国・ヨーロッパ間を往復していたわけではなく、中国の商人が国境まで、そこからインドや中東の商人が中国の品物をヨーロッパの入り口まで運び、ヨーロッパ内で拡散していきました。もちろん、中国産の品物といえば、絹ですが、陶磁器(こちらは海路が多かったようですが)もありました。ヨーロッパは代価としてほぼ金で払いました。

ちなみに、絹がヨーロッパで熱狂的に求められた理由は、従来ヨーロッパでの衣服の材料といえば、毛皮、毛織物、エジプト綿(当時かなりゴワゴワ)しかなく、いずれも着心地が悪かったため、絹の柔らかさに魅了されていました。ヨーロッパにすれば、完全なる輸入超過なのですが、当時は金の流出を心配しても貿易収支が悪いと中国に文句を言おうという議論はありませんでした。こうした議論が生まれるに至る下地は近世で見ていきたいと思います。

一方、中国は、馬(モンゴルに生息。中国になかったため、西域との戦いでは不利でした)、翡翠(中央アジア産)、香辛料(インドや東南アジア産)を求めました。ここから、中国がヨーロッパと直接取引するインセンティブはなく、中国の方が先に航海技術が発達し、アフリカの方まで遠征した記録がありますが、積極的かつ継続的につながろうとしなかった理由がここに見えます。

 

*中国思想史に関しては、アンヌ・チャン著「中国思想史」が力作です。
**トクヴィル著「アメリカのデモクラシー」

 

本コラムの執筆者================================

吉川 由紀枝

ライシャワーセンター アジャンクトフェロー

プロフィール:

慶応義塾大学商学部卒業。アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)東京事務所にて通信・放送業界の顧客管理、請求管理等に関するコンサルティングに従事。

2005年米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院にて修士号取得後、ビジティングリサーチアソシエイト、上級研究員をへて2011年1月より現職。

また、2012-14年に沖縄県知事公室地域安全政策課に招聘され、普天間飛行場移転問題、グローバル人材育成政策立案に携わる。




※当文章は著者の個人的見解であり、所属団体の意見を反映したものではありません。