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東京IPO特別コラム:「歴史の重み:中世から近世へ・ヴェネツィア共和国」

〜語られないものを視る眼〜


「歴史の重み:中世から近世へ・ヴェネツィア共和国」


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今回は現代日本にとり、とても示唆に富むヴェネツィア共和国です。この国は千年以上続いた最長の共和国で、都市国家から始まった当初は塩以外の資源なし、貿易で生計を立てる他なし、特に食料自給率は低く、人材のみが生命線、という現代日本によく似た状況でした。そんな都市国家が(西)ローマ帝国滅亡後からナポレオン軍に降伏するまでの興亡を見ていきたいと思います。

ヴェネツィア共和国
ヴェネツィアといえば、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」という作品があるように、商業で身を立てた国家です。(但し本物のヴェニスの商人なら、被告のようにそもそも一回の航海事業に全財産をつぎ込みませんし、ましてや原告のように担保として売れるはずのない心臓の肉を指定することもありません。)塩と食料の交換から、やがて地の利を活かして中東経済圏との貿易で香辛料を中心に巨万の富を築き、11世紀ごろから周辺地域の主要プレーヤーとなります。

この国は共和国といっても、貴族が支配する共和国(投票・被投票者はすべて貴族)ですが、この貴族からして商業を営んでいました。この商人が運営する国家は、後述のオランダ帝国や大英帝国の先駆け的な姿でもあります。商人にとり、この政体が生み出す何よりのメリットは、他地域のように領主がその財産に目をつけ、商人を恣意的に殺害、財産没収といったリスクがないということと、民間セクターに資本が蓄積される(国全体が豊かになれる)ということになります。(王国で同じことをするための仕組みは後述)

さらに、商人は自身の事業を運用するように国家も運営しましたので、監査や会計制度もあり、商人政治家をサポートする官僚もパドヴァ大学で法と行政の分野で卒業していることが条件でした。また、統治制度についても、大統領に相当するドージエ選挙では複数回行い、その中にくじを用いられるようになっており、少数の家族が独占することのないように配慮されていました(事実世襲していません)し、ドージエは一人で自分宛の私信さえ開けない程その権力に制限をかけていました。強いて言えば議会に近い十人委員会とドージエを頂点とする官邸的な組織委員の合計16名で国家の方針を決めていました。(他の王国の統治制度の緩さは後述)

なお、国民全体に何某かの富が行きわたるよう、ムーダという国家プロジェクトもありました。これは、ギリシャ、パレスチナ、エジプト、フランドル(フランダース)各方面へ国営の定期商船団を派遣する制度です。国家が国立造船所で武装ガレー船を建設し、ガレー船団に売り物を積載できるスペースを公売にかけ、公正な価格で個人・コレガンツァ(企業の先駆けともいえる、非親族間の共同パートナーシップ。それまでは親族間による個人商店がほとんどでした)が利用できます。そして、この共同パートナーシップも独特で、本国にいるパートナーが2/3を、乗船して商売するパートナーが1/3をそれぞれ出資し、利益を折半する形やすべて折半という形態もありました。こうすることで、若い世代は船に乗り込み、貯蓄し、ある程度年をとったら出資額を増やし、活きのいい若者とパートナーシップを組む、というキャリアパスも見えてきます。また、寡婦等が純粋にガレー船事業に公債等の形で出資し、年利を受け取ることもありました。

国民全員が海外貿易に何らかの形で関与し、利益に与れるという素敵なプロジェクトですが、このような思考ができるのは、商人主導国家ならではでしょう。また、このような社会福祉的要素を考慮していたからこそ、貴族支配で国民は納得し、団結力も強かったです。ただ、ここで注目しておきたい点は、当時海賊がたくさんおりますので、ヴェネツィア海軍が動員され、東地中海での海上安全保障を担ったということです。そして、現代用語でいえばシーレーン防衛のため、ヴェネツィアはアドリア海やエーゲ海の要所々々に海外拠点(植民地)を持ち、ヴェネツィア船は国営・私営に関係なく安全にその港を利用でき、クレタ等では砂糖プランテーションまで持っていました。

そして現代日本との大きな相違点は、外交が上手という定評を持っていました。現代のように大使使節を主要宮廷に常時派遣するという制度も、ヴェネツィアが先駆けの一つとなっています。資源がなく、周囲から攻撃されることが一番心配であり、特に中東(異教徒)との貿易はキリスト教徒に不快感を与えますので、情報収集・分析には人一倍神経を使っていました。

特にローマ法王庁とうまく交渉し、国内の教会資産は課税対象となり、聖職叙任権も持っていました(ヴェネツィアが指定する人物をローマ法王が任命する)。後述しますが、これは他国にはないことです。よって、中世に一世を風靡した魔女狩りはヴェネツィアでは起きていません。中東との貿易でカトリック以外の視点を持ちえた商人ならではのリアリズムのなせる業でしょう。

そして、外交交渉のうまさ・商魂のたくましさが際立つ出来事が、第四回十字軍でしょう。これほど意味不明なプロジェクトもないのですが、当時のローマ法王の呼びかけで十字軍ボランティア(もちろん旅費、武器等すべて自前ですが、エルサレムで何か宝物を入手できれば、一攫千金の夢は膨らむ)が募られました。当時エルサレムはエジプト王国が支配していたので、カイロを目指すことになっていました。そこで、船、武器、食料を調達する必要がありますが、その発注兼寄付依頼がヴェネツィアにもたらされます。

さて、ヴェネツィアにとっては一大事です。地中海周辺諸国との貿易で成り立っている国で、エジプトも重要な取引先の一つです。しかし断ると、キリスト教徒の敵と非難されかねず、ヨーロッパを得意先としているヴェネツィアとしては無下にもできません。

そこで、ヴェネツィアはまず十字軍の要望に応えるべく、誠実にガレー船その他受注物資を整えた上で、代金を請求します。当然相手の懐が軽すぎることを承知の上です。そこで、ヴェネツィアは一つ提案をします。代金は後払いでよいが、その代わりエジプトに行く前にヴェネツィアと不仲のビザンツ帝国(東ローマ帝国)のコンスタンティノープル(現イスタンブール)に行き一緒に戦ってほしい、そして勝利した暁にはビザンツ帝国の3/8を頂戴するというのです。

もちろんその提案を受けざるを得ず、十字軍は同じキリスト教徒の都市コンスタンティノープルを征服し、親カトリック国のラテン帝国を樹立し、ヴェネツィアへ戻ります。(ラテン帝国自体は軍を常駐するわけではないので、数十年で滅亡、元のビザンツ帝国が復活します)そして、コンスタンティノープルから持ち帰った略奪品でヴェネツィアへの借金を返し、帰国します。ローマ法王は本来の目的通りエジプトへ行け、と呼びかけますが、誰も応じませんでした。加えて、行軍中見た珍しい中東のぜいたく品への需要がヨーロッパ全土に徐々に高まるというおまけつきで、ヴェネツィア共和国はエジプト遠征を阻止し、物資調達コストも無事回収でき、エーゲ海の島々も海外領土(植民地)として手中に収め、万々歳でした。

しかし、15世紀頃より徐々に不利な国際環境になっていきます。一つには、ビザンツ帝国がオットマン・トルコ帝国により滅亡し、徐々に海軍力を蓄え、断続的にヴェネツィアの海外領土を脅かしては譲渡せざるを得なくなります。(もちろん、外交力を駆使し一度はカトリック連合(神聖同盟)を結成し対抗しますが、同盟国内の意思統一ができず、まさかの惨敗で、ヴェネツィアは単独講和条約を選択します。)もう一つにはポルトガルによるアフリカ周りアジア航路の開拓により、香辛料貿易の独占が崩れてしまいます。(とはいえ、完全に撤退するには時間がかかりますが)

また、前稿でカール大帝はフランスと生涯戦争していたと書きましたが、その前哨戦ともいうべきイタリア戦争が長く続いたため、傭兵中心の陸軍を結成し、近隣の領土(テッラフォルマ)を併合するようになり、最終的にはイタリアで有数の領主となります。(この頃、ヨーロッパでボローニャ大学に次いで古い大学で有名なパドヴァ、ヴェローナ等を保有)これにより、ヴェネツィアの領土拡大に警戒した周辺諸国がヴェネツィアの新規獲得領土を山分けし、その勢いでイタリアに侵入するフランスを叩こうという、欲望の塊同盟(カンブレー同盟)が結成され、ヴェネツィアを襲いました。

本来このようなことが起きないよう事前に察知し、外交政策を打つべきところ、全くの失策でした。ヴェネツィアは降伏し、陸地領土をほぼ全て失います。しかし、カンブレー同盟による対フランス戦争ではヴェネツィアも参加し、フランスが有利と見るやフランスと同盟を組んで周辺諸国から元のテッラフォルマを再度奪取します。この辺の変わり身たるや、鮮やかなものです。

しかし、このテッラフォルマはヴェネツィアにとり功罪相併せ持つ代物でした。当時は多角化経営の一環で取得したテッラフォルマに投資を行い、左団扇で安定した税収入が入る他、農業(しかも取得したころから飢饉により食料価格が高騰)、林業(造船コスト引き下げに貢献)でも利益を上げました。

事実、ヴェネツィア共和国の財政収支データが裏付けています。(以下単位はドゥカート)1500年海外領土が収入20万に対し支出が20万(利益ゼロ)、テッラフォルマが収入約32万に対し支出が約9万(利益約24万)。これが1582年にはもっと差が開き、海外領土が収入約38万に対し支出が87万(利益マイナス約49万)、テッラフォルマが収入約107万に対し支出が約27万(利益約80万)*となります。不安定な海外貿易に従事するより、テッラフォルマのコストパフォーマンスがはるかにいいのです。(植民地はコスパが悪いことを示す最初のデータかもしれません)

しかし、こうした安定収入の味を覚えると、人間だんだん保守的になっていき、柔軟な思考も硬直化していきます。それがヴェネツィア共和国の命取りとなります。15世紀には造船技術が進歩し、丸形帆船が主流となり、多くの漕ぎ手が必要なガレー船ではコストパフォーマンスが悪くなっていきました。帆船は風任せではある一方、ガレー船は人力でいつでも航行可能というメリットはありましたが、既存技術にしがみついた結果、後発のオランダやイギリスに後れを取り、さらにヴェネツィアに材木が少ないことがさらに造船コストを他国よりも引き上げ、最終的にはオランダ、イギリス船を発注することになります。(技術立国なら、二番目ではいけないということですね)

毛織物産業でも同じで、高級品として職人が高給を取り、製造工程を固定化させていましたが、やがてトルコのマーケットニーズの変化に柔軟に対応できず、後発のイギリス、オランダの安価な中級品に駆逐されました。

また、中東、ギリシャとの直接の窓口であったにもかかわらず、ルネッサンス発祥の地はフィレンツェに譲ってしまいました。(もちろん、ティツィアーノやベリーニ等ヴェネツィア派の芸術家は後発ながら誕生します)そして教会から狡猾な距離感を保つ精神も弱くなり(一部には黒死病の蔓延は神に背き享楽にふけった故かと反省した精神もありますが)、ガリレオ・パドヴァ大学教授の異端裁判後、大学内で彼を擁護する雰囲気はなく、彼は去ってしまいます。

このように自慢の海軍力ではトルコに、陸ではフランスやハプスブルク家等の周辺諸国に敗北するという事態に至って、最新技術を導入してもあまりに動員できる資源が少なすぎ、軍事の道ではなく、「平和な文化国家」の道を選択し、できる限り中立政策を貫きます。(どことなく、現代日本の政策と親和性が高いですね)

そして、歓楽都市として、観光ばかりではなく謝肉祭、カジノ、娼婦特にコルティジャーナ(日本の太夫に近い、教養の高い高級娼婦)等が名高く、一般市民用オペラやコメディ劇が上演され、グランドツアー(ヨーロッパ貴族の勉学の最後にヨーロッパ文明のルーツをたどる卒業旅行)の訪問地によく組み込まれました。華麗な女性遍歴で有名なカサノヴァはまさにこの時代が生んだといえるでしょう。

また、観光以外では、トルコ宮廷向け高級絹織物やヴェネチアン・ガラスといったぜいたく品生産が生き残りました。ちなみに、中国政府が忌み嫌う知的財産という概念もヴェネチアン・ガラスから始まっています。ヴェネツィア共和国は、著名なガラス職人たちの斬新な製品を模倣品から守るため、10年の特許を与えたのが始まりで、その後ガラス職人たちが海外に住むと、そこでも特許の保護を求めた結果、広まった制度です。

そんな「平和な文化国家」としての惰眠的平和も、ナポレオン軍の攻撃を前に戦うことなく崩れ、ヴェネツィア共和国はついに滅亡したのでした。

確かに、平和なときに安定収入があるのに、荒海相手に勝負するのは難しい選択です。安寧の中に昼行灯を育てるのは難しいでしょう。ですが、国として切磋琢磨を忘れ、享楽にふけるばかりだと、いつか堕落し、滅亡するということをヴェネツィア共和国の歴史は教えてくれます。(植民地を持つ帝国という観点については、後述)

*中平希著「ヴェネツィアの歴史」P124-5参照。

 

本コラムの執筆者================================

吉川 由紀枝

ライシャワーセンター アジャンクトフェロー

プロフィール:

慶応義塾大学商学部卒業。アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)東京事務所にて通信・放送業界の顧客管理、請求管理等に関するコンサルティングに従事。

2005年米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院にて修士号取得後、ビジティングリサーチアソシエイト、上級研究員をへて2011年1月より現職。

また、2012-14年に沖縄県知事公室地域安全政策課に招聘され、普天間飛行場移転問題、グローバル人材育成政策立案に携わる。




※当文章は著者の個人的見解であり、所属団体の意見を反映したものではありません。