東京IPO

English

東京IPO特別コラム:「歴史の重み:近世から近代へ・戦争は外交の延長である」

〜語られないものを視る眼〜


「歴史の重み:近世から近代へ・戦争は外交の延長である」


PDF版のダウンロードはこちらから


 

今回はナポレオン、クラウゼヴィッツ、メッテルニヒ、ビスマルクという、近世から近代にかかるビッグネームのお話です。

戦争の形を変えた男、ナポレオン
ナポレオンの名前を知らない方は少ないと思いますが、ナポレオンはなぜ強かったのでしょうか?ナポレオン個人の素質*は別とすれば、一般市民から兵隊を募るという画期的なスタイルを戦争に持ち込んだからです。中世の節で、家来の騎士は年間40日間しか従軍義務がなく、戦争が長引くと、家来の騎士に追加料金を払うか傭兵を雇うしかないというお話をしました。そう、それまでは戦争は騎士か傭兵がするものでした。これに一般市民を導入することで、これまでの兵士数≒軍事力の計算がひっくり返るパラダイムシフトで、ナポレオン戦争が近代戦の幕開けと言われます。

これが可能になった背景には、銃の発達にあります。昔の騎士のように馬に乗って槍や剣を繰り出すには、長年の訓練を要しますが、遠くから銃を連発するのがメインの仕事ならさほどの訓練は要りません。日本でも幕末に高杉晋作が募った農民からなる奇兵隊が活躍しましたが、これと同じロジックです。

そして、ナポレオン戦争以降、戦争は単なる軍事力だけではなく、戦費を賄える資金調達力(国際信用力を含む)、兵器を製造する経済基盤の有無やその生産力や技術力、兵士の質を左右する初等教育制度の普及率や識字率(当時オーストリア・ハンガリー帝国、ロシア帝国、オスマン・トルコ帝国は大きく他国に遅れていました)等、国を挙げての総力戦へと変貌していきます。

また、徴兵制は厄介な副産物も生み出しました。それはナショナリズム(国家主義)です。それまでは、中世の節でお話しました通り、王侯貴族の結婚と遺産相続で領主、ひいては国籍が簡単に変わっていましたし、王様が外国人であり、統治下の領土内の言語も話せないこともよくありました。よって、領主の本拠地以外の地元の人々には郷土愛はあっても、国籍はどこという意識はあまり必要ありませんでしたし、どんな王様もナショナリズムを煽るようなことをしませんでした。(そもそもナショナリズムという言葉もありませんでした)

しかし、一般市民を戦争に巻き込み、命がけでしっかり戦ってもらうためには、各自が郷土愛を国家なるものへの愛へ転換してもらわねばなりません。国家への愛、献身の要求を正当化するものが、ナショナリズムであり、これを戦時以外にも煽りすぎると、国民は政府への反対意見を言いにくく、全体として正常な判断を下しにくい環境が生まれてしまいます。ナショナリズムとは、一般市民を戦争に駆り出すために生まれたような思想です。庶民的には、平時にナショナリズムを煽るような政治家は、本来解決すべき国内問題をろくに解決できず、戦争によってしか国民の眼をだます、そらすしか能がない、無能さを露呈していると理解すべきなのです。

「戦争論」の著者、クラウゼヴィッツ
さて、話をナポレオンに戻し、ナポレオンの弱さ、限界は何だったのでしょう?この答えは、「戦争論」の著者クラウゼヴィッツに語っていただきましょう。クラウゼヴィッツは、ナポレオン戦争にドイツ軍人として参戦後、この未完の名作を著作しました。

「戦争論」で最も有名なフレーズといえば、「戦争は外交の延長である」でしょう。すなわち、目的を達成するために外交が達成できない力の強要を行うのが戦争であるということです。政治が目的を決め、その目的の達成方法としては外交が第一であり、外交ができない部分を戦争が担当するべきであるということです。別の表現をすれば、戦争を行う決断をする前に、政治がきちんと目的と、その手段としての外交と戦争の境界を決めるということです。

ナポレオンの場合、わずか皇帝在位10年足らずでヨーロッパ大陸の主要な王国を抑えましたが、その目的は何でしょう?当時のフランス兵にもわかりませんでした。フランス国内でも、フランス革命後に疲弊した経済復興を優先すべきところを、働き手を兵として奪い、ナポレオンが聞いたこともないような外国のどこかを獲得したといっても、あまり喜びませんでした。

むしろ、ナポレオンがたまたま優秀な指揮官だったから、アメリカ大陸にある現ルイジアナ州辺り一帯をアメリカに売却することで得た売上代金を使い、不審な目で見る近隣諸国軍に対しやみくもに戦域を広げ、フランス領土を広げました。しかし、軍事的な勝利を政治的な利益として利益確定させられませんでした。外交も何もあったものではなく、領土を広げるほどに、周辺諸国を対仏同盟へと急き立て、未然に防ぐこともせず、モグラたたきのように力に物を言わせるのみでした。

どんなに強くても、国家は戦争だけではやっていけません。

ヨーロッパの平和を実現した男、メッテルニヒ
外交音痴なナポレオンに外交で対抗したのが、オーストリア帝国の宰相メッテルニヒです。
メッテルニヒといえば、ポスト・ナポレオン体制を検討する国際会議を主宰し、「会議は踊る。されど進まず」で有名ですが、会議中、最初の流刑地エルバ島からナポレオンが脱出したと聞くや、連合軍を速やかに結成し、再度ナポレオンを流刑に処しました。その後メッテルニヒは、いきなり大上段でフランスの処遇をヨーロッパ諸国内で決め打ちするという手段を取らず、戦後直後の戦勝国の鼻息の粗さを時間で落ち着かせ、フランスの生存権を考慮した上での処遇を模索し、過剰な報復を抑制し、法外な賠償金を請求することもなく、合意に至らしめたというところに、外交手腕が光ります。

この英断のおかげで、ヨーロッパは約50年の平和を獲得します。

この、他者の視点で長い眼で物事を視ることができる力、あるいは戦勝国の余裕が20世紀には失われてしまったのが、何とも不幸です。

向かうところ敵なし、ビスマルク
せっかくメッテルニヒの英知がもたらした平和な期間に、惰眠を貪っていたのが不幸にしてハプスブルク家のオーストリア帝国で、最も利益を得たのがプロシア帝国でした。

中世の頃、ドイツは約200もの小国で成り立っている地域で、誰もドイツという単位でまとまるという考えはありませんでした。それが、ナポレオンが全ドイツを手中に収めたこともあり、ナポレオン後のウィーン体制で、約40程度に整理され、ドイツ連邦が誕生しました。どの国も当初は大国オーストリア帝国を仰ぎ見るだけの存在でしたが、やがて新興国が出現します。

それが、プロシアです。鉄血宰相として名高いビスマルクの下、ドイツ連邦内のオーストリアの影響力を切り崩し、オーストリアとも戦争に勝ち、最終的にフランスと戦い(普仏戦争)、ドイツ帝国(ドイツ統一)を宣言しました。

しかし、ナポレオンやその後のヒトラーと異なり、ビスマルクの英知が光るのは、ここで自らの拡大路線を終了し、自らが作り上げた新しい国際(ヨーロッパ内)秩序を守る側として、オーストリアとロシアとの間で三帝同盟を締結し、当時バルカン半島を巡り対立するオーストリアとロシア間の関係を取り持ち、イタリアとも同盟を締結し、プロシアが今後戦うとすればフランスのみ、という外交政策をきちんと敷いたところにあります。そしてビスマルクもまた、普仏戦争後ウィルヘルムI世がフランス領土割譲を求めるところを再考させ、過剰な報復を行わない姿勢を貫きました。

ビスマルクが実際に「戦争論」を読んだかわかりませんが、クラウゼヴィッツの趣旨を確かに体現したといえます。すなわち、ドイツ統一という目的が明確にあり、そのために必要な、近隣の大国オーストリアとフランスのドイツ内における影響力や介入を根絶させるために戦争を行い、それが達成した時点で戦争を停止し、平和の維持を外交政策(同盟)により保証するという、戦争と外交の使い分け、あるいは役割分担がぶれずに確固としてありました。

少々長いですが、アメリカの歴史家・戦略家であるギャディス教授を引用したいと思います。

「衝撃と畏怖は必然的に平常からの離脱である。成功すればそれらは何が「平常」であるかを置き換えることさえできる。しかしそれは作り出した利益を維持できない。その効果が徐々になくなるからである。それらは予期されるものになり、最初に何かを実行させた驚きの要素をむしばむのである。

これが良き戦略家が衝撃と畏怖をもたらすことをやめるべき時、つまりそうした戦略がもたらした利益を固めて強化することを始める時をわきまえている理由である。その古典的な例がオットー・フォン・ビスマルクである。彼はドイツ統一の道を開くために一八六四年のデンマーク、一八六六年のオーストリア、一八七〇年のフランスとの戦争を勃発させることによって衝撃と畏怖についての新しい基準を設定した。一八七一年にこれを達成するとビスマルクは不安定化作戦を、新しく出現させた現状の強化と周囲を安心させる再保証を目的とした新たな戦略に置き換えた。つまり不安を持つ同盟諸国、打倒した敵、傍観していた国々を説得して、戦争を続けたりあるいは新しい状況に恐怖をいただき続けたりするよりも、ビスマルクがそうした国々に押し付けた新しいシステムの中で生存する方が一層幸せであると警告したのである。革命家は保守主義者になったのである。

無能な戦略家はこの転換をいつ行うべきかをわきまえていない。彼らは衝撃と畏怖に魅了されるあまりそれだけで終わってしまうのである。彼らは再保証を提供することができないために、最後にはシステムの構築者よりも破壊者になって終わるのである。(中略)再保証は決定的に重要である。なぜならそれなしには遅かれ早かれ恐怖が摩擦となり、それは抵抗にとって代わられるからである。」**

最後の「無能な戦略家」はナポレオンやヒトラーを意識しているのでしょう。補足として、ビスマルクという巨人の影の部分もお話しておきたいと思います。ビスマルクは国内でも国外でも向かうところ敵なしで、独断的ですが政治家にも軍人にも自らの目的に即した指示を与え、実行させてきました。こうした強いリーダー像がその後のドイツ政治でのイメージになり、その後のワイマール帝国での政治リーダーシップのなさ加減に嫌気がさし、ヒトラーの独裁を歓迎する下地になったと考えられます。

また、ビスマルクは戦争の担当領域を国家の体力に合わせ適量に定め、モルトケ将軍がビスマルクに従い戦略を立てました。逆に言えば、ビスマルク宰相とモルトケ将軍との間には上下関係しかなく、モルトケ将軍が意見をいい、ビスマルク宰相がそれを聞いて目的や大戦略を再検討するというわけではありませんでした。しかし、ビスマルク後親政を敷いたウィルヘルムII世は、ビスマルク外交路線の正反対を行い、周囲をすべて反独に変えてしまいました。よって、ドイツ軍部はその外交と軍事の境界線が適切なのか質問を皇帝に投げかけることなく、唯々諾々と二正面戦略(フランスとロシアの二方面で戦う)を立案しました。その戦略でドイツが生き残れるのか、考える政治家がいないままに。その結果が、第一次世界大戦でした。

「戦争は外交の延長である」わかっているようで、なかなか体現できない言葉なのです。

*クラウゼヴィッツが語るところのクー・ダイユ(心の目)、「通常の眼力の人にはまったく見えないか、長い観察と熟慮の末にようやく見抜ける真理を瞬時に的確に把握する能力」を持っており、戦場で敵の最も弱い点を見抜いてそこに味方の兵力を集中させ、勝利に導いたといわれています。
**ジョン・ルイス・ギャディス著「アメリカ外交の大戦略」

 

本コラムの執筆者================================

吉川 由紀枝

ライシャワーセンター アジャンクトフェロー

プロフィール:

慶応義塾大学商学部卒業。アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)東京事務所にて通信・放送業界の顧客管理、請求管理等に関するコンサルティングに従事。

2005年米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院にて修士号取得後、ビジティングリサーチアソシエイト、上級研究員をへて2011年1月より現職。

また、2012-14年に沖縄県知事公室地域安全政策課に招聘され、普天間飛行場移転問題、グローバル人材育成政策立案に携わる。




※当文章は著者の個人的見解であり、所属団体の意見を反映したものではありません。