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東京IPO特別コラム:「歴史の重み:近代・グレートゲームと地政学」

〜語られないものを視る眼〜


「歴史の重み:近代・グレートゲームと地政学」


グレートゲーム

さて、前稿にて大英帝国は商人の国家というお話をしましたが、今回はそのツケが回ってきたというお話です。一つは、資本輸出はライバルを作るということです。産業革命を経験したイギリスの投資家たちは、産業革命前の国々に資本輸出し、産業革命を起こすことでその国々の産業全体が向上し、大いなる利益を生むことを知りました。そして、有望そうな国から、大英帝国にとり好ましくない国々も含め手当たり次第投資していきました。結果、当然大英帝国のライバルが出現します。ビスマルク時代に統一を果たしたドイツ、ロシア、アメリカです。

さらに、植民地支配コストのツケを国家に押し付けたというお話もしました。この押し付けにより、商人同士の競争から国家同士の戦いにレベルアップしていきます。これを、クロスカントリー・レース、特に英露間の場合をグレートゲームと言います。

すなわち、世界中の土地は有限ですから、ゼロサムゲームで、自国が多く取ればその分ライバルの取り分が少なくなる、完全なファースト・ムーバー・アドバンテージ(FMA)の世界です。そのため、先に「未開の地」を「発見」し、基盤を築いた国がその土地の「領主・宗主国」となることが大事です。ゆえに、ヨーロッパ人が血眼になり、まだ知らない土地を探検に出かけ、「未開」ではない場合、その地の王・豪族を味方に引き入れ、保護国、勢力圏下に組み込むのです。

このバトルがユーラシア大陸ではイギリスとロシアを中心に繰り広げられていきました。(グレートゲーム)エジプトはイギリスの保護領となり、ペルシャ帝国では両国の使節が国王に取り入り、北部と南部でそれぞれの影響圏を確立しました。アフガニスタンではそれぞれ軍を派遣し、現地勢力を戦いましたが、山岳地帯でのテロ攻撃にこの頃から手を焼き、両国ともバッファー地帯としてどちらの勢力にも入らないことで落ち着きました。(こんな風に他国で鍔迫り合いをするわけですから、現在のイランもアフガニスタンも西洋が嫌いになるのも、故なきことではないのです。。。)イギリスは、インド、その北のチベットにまでイギリス兵士たちが乗り込みました。そして、イギリスが巨大な大清帝国をどうモノにしようかと食指を動かし、ロシアが満州、朝鮮半島に関心を抱いたところに、日露戦争でロシアの南下政策に歯止めをかけました。ユーラシア大陸に無政府地帯がなくなったところで、グレートゲームは終了となり、これだけ戦った割には、ヨーロッパ内の事情の変化により、英露は1907年に英露協商を結び、鞘を納めます。

地政学の誕生

この動きをみたイギリスの地理学者マッキンダーが、1901年に大いなる発見を発表しました。曰く、なぜ先進国のイギリスに後進国のロシアが張り合えるのか?イギリス海軍はアフリカ大陸を回ってようやくアジアにたどり着くが、ロシアはその地の利を活かし、鉄道で陸軍を派遣できるからだ、地理が国際政治にとり重要である、世界を手中に収めるにはいい立地(ハートランド)というものがある。「ハートランドを制する者は、世界島を制す、世界島を制する者は世界を制す」これが地政学の始まりです。

今でこそ当たり前なことのように聞こえるかもしれません。世界地図を広げれば、イギリスがアフリカを回っていくよりも、ロシアから南下した方が早くアジアに行けるに決まっています。しかし、ロシアに鉄道をアジアに向かって敷けるだけの技術力や資本があればこその話であって、このような前提はマッキンダーの時代には新しいことなのでした。

このロジックを国際政治的に昇華させたのが、アメリカの国際政治学者のスパイクマンで、海洋国家をシーパワー、大陸国家をランドパワーと名付け、シーパワーは大陸へ、ランドパワーは海へ勢力・領土を広げる力学が働き、両者がぶつかりやすいエリア(沿岸、半島、陸に近い島々)をリムランドと名付けました。(ちなみに、戦前・戦中もてはやされたハウスホーファーは、マッキンダーのハートランドこそわが祖国だとしてロシアをドイツに置き換えただけで、ナチスドイツや日本の軍部、京都学派に気に入られた御用学者でした)

さて、マッキンダーの講演を受け、「イギリス高級官僚のエア・クロウは覚書を書く。「海外に広大な植民地と保護領を持つことによってイギリスが生き残るためには、やはりこれまで長年にわたって維持してきた「シーパワーの優位」に依存するのがよい。シーパワーを活用すれば、「すべての国は海からアクセスできる隣国」となる。この状況は他国に「羨望と恐怖」を抱かせる恐れがある、(中略)したがってイギリスは、自国の利益を「全人類に共通の願望と理想」と調和させる必要がある。(中略)優勢な海軍力を誇るイギリスは、マッキンダーが強調した大陸の勢力均衡を図るのみならず、海に面した国々に対しては、制海権を持つイギリスは自国の権益と同様にあなた方の権益も尊重すると安心させる必要がある。

イギリスは、「世界の市場において自由に通商貿易を行う権利」を強化することによって、これを成し遂げたとクロウは論じる。国富増大をめざす重商主義を排除する限りにおいて、通商貿易の促進はイギリスの利益に適う。また貿易促進はイギリスの海軍力の脅威を薄れさせ、「他国との利害に基づく友好関係の維持」を容易にする。他国は自らの力では海を支配することができなければ、「強力な保護貿易国」となるよりは、「イギリスとの自由貿易関係」を確立することによって、イギリスの制海権を活用する方がよいと考えるからだ。」*

こうして、イギリスはいわゆる「栄光の孤独」と言われた孤高の単独覇権ではなく、複数の覇権が存在する将来に備え、軍事力以外の観点からもイギリス覇権を魅力的に見せる、他国を味方に付けることを意識する、現代用語でいえばスマートパワー(軍事のハードパワーと非軍事のソフトパワーの組み合わせ)を模索するようになります。この考え方は、時代を経るにつれ、ますます洗練されていきます。例えば、冷戦時代に日本語では「西側陣営」と中立的な表現がほとんどでしたが、英語ではソ連側の「共産主義陣営」に対し西側陣営は「自由世界」という表現を多用していました。思想面でもどちらがより魅力的に聞こえるかを意識したものです。また、現代でも中国やロシアを「一党独裁」、「独裁」というネガティブな表現に対し、西洋を「民主主義」や「自由」を標ぼうする国として表現する点も同様の思想から来ています。

少し脱線しますが、ソフトパワーは名称こそはなかったものの、昔から存在していました。世界中どこでも昔から考えるのは、王宮です。王宮を立派にすることにより、どれだけの財力を駆使できるかを外国人に誇示し、外国の戦意を喪失させようとする意図があります。フランスの太陽王と言われたルイ14世が作ったベルサイユ宮殿、オーストリア・ハプスブルク家のシェーンブルン宮殿、トルコ帝国のトプカプ宮殿、ペルシャ帝国のアリ・カプ宮殿、北京の紫禁城等枚挙に暇はありません。

次に、工業力が国力の差を生む時代になると、万国博覧会(万博)等のイベントや博物館、美術館がこれに加わります。例えば、明治初期に岩倉使節団は首都を訪ねるたびに、必ず博物館や美術館へ行きなさいと言われました。単なる市内観光地を薦めているわけではなく、「こんなに高度な文化、工業力があります」というソフトパワー誇示の場だからです。方々でこれらの施設を見せつけられた明治政府は、同様のものが自国に必要であることを痛感し、国立博物館を明治5年と比較的早い段階で設立しています。せっかく先人たちが学んだ教訓、遺産はきちんと活用し、次世代へ繋いていきたいものです。

さらに、ここでクロウは、ソフトパワーに「貿易」を新たに持ち込んだともいえます。

ドイツの台頭と第一次世界大戦

さて、英露を和解させたヨーロッパ内の事情とは何でしょう?ドイツの台頭です。ビスマルク時代、ドイツはその繁栄を確固たるものにするべく、ヨーロッパの主要国と同盟網を築き、ドイツが戦うとすればフランスのみ、という状態を作り上げました。

しかし、ビスマルク宰相のスポンサーであるヴィルヘルムI世が亡くなり、II世は早速ビスマルク宰相を解雇し、皇帝自らの親政と称して世界一の陸海軍を作るべく軍拡に走りました。あまりに露骨であったがため、当然ヨーロッパ中はドイツを警戒し、イギリス、ロシア、フランスは裏で手を結びました。一方、ビスマルク宰相が独裁的に政治・外交と軍事の境界線を引き、軍事領域として与えられた範囲内で最適な軍事作戦を計画するよう躾られていたことが仇となり、モルトケ将軍を始めとするドイツ参謀本部は、前述の三か国を相手にする二正面作戦を計画し、第一次世界大戦で実践しました。

ビスマルク宰相の功罪は様々言われますが、ビスマルク宰相の頭の中だけで決めてしまい、政治・外交と軍事の境界線に関して宮廷や政治家たちの合意形成の過程を省略してしまったことがこのように災いとなってしまいました。議論の場が少しでも許されていたら、ヨーロッパの主要国を全て(当時既にオーストリアやトルコは病人扱いされていました)敵に回す外交政策では軍事の領域が広すぎ、十分な資源がないと、バランス感覚を取り戻すような議論もあったのではないかと考えられます。そして、このビスマルク的リーダーシップ像が強く残ったまま、ドイツ社会は形だけを真似たヒトラー総統の政権掌握を許したのではないかという見方もあります。

独裁者が作る、議論がないままの成功例は、後世では再生産しがたいと歴史は教えてくれます。

*ジョン・ルイス・ギャディス著「大戦略論」

 

本コラムの執筆者================================

吉川 由紀枝

ライシャワーセンター アジャンクトフェロー

プロフィール:

慶応義塾大学商学部卒業。アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)東京事務所にて通信・放送業界の顧客管理、請求管理等に関するコンサルティングに従事。

2005年米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院にて修士号取得後、ビジティングリサーチアソシエイト、上級研究員をへて2011年1月より現職。

また、2012-14年に沖縄県知事公室地域安全政策課に招聘され、普天間飛行場移転問題、グローバル人材育成政策立案に携わる。

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※当文章は著者の個人的見解であり、所属団体の意見を反映したものではありません。