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東京IPO特別コラム:「積極的惰性:日米開戦80周年に寄せて」

〜語られないものを視る眼〜


「積極的惰性:日米開戦80周年に寄せて」


積極的惰性
昨年は日米開戦80周年ということで、歴史番組でこの時代の話がよく取り上げられていました。また、安全保障が専門なので、知人と話していても話題になることがあります。そこで気になるのが、どこがターニングポイントか、誰それがどうしていたらよかったか、という視点です。例えば、近衛首相が開戦直前に訪米していたら、山本五十六提督がもっと開戦回避に動いていたら、ミッドウェー海戦の指揮官が南雲提督でなかったら、等々。

しかし、こうした質問は残念ながら無意味だと思うのです。なぜなら、政治が軍部を抑えられないことが諸悪の根源であり、これを根絶できない時点で破滅への路線は確定していたからです。目端の利いた個々人がいかに奮闘をしたところで、目の前の危機は回避できても、暴走した軍部がまた違う形で危機を引き起こしたでしょう。

心ある、優秀な人々がバラバラに、大きな問題の全体像が見えないまでも見える範囲内で事態を好転させようと通常以上にがんばります。これを専門用語で「積極的惰性」というそうです。しかし、政治が軍部を止められないというような大きな問題である場合、もはや個々人で何かできる領域を越えており、早急にリーダーが決断を下し、大改革をしなければ、根源的な解決になりません。こうした場合、積極的惰性による努力は、満員電車の中で大勢の流れに抗うのと同様、無駄な抵抗に過ぎません。

現代社会にも似たような話はないでしょうか?人材不足がそもそもの原因なのに、経営層は何もできず、さりとて期待値を下げるわけでもなく、中間管理職やサブリーダーたちは、日々の業務を遂行させるべく過剰労働を余儀なくされ、心身のいずれか又は両方を病むか、経営層と同様全く何もせず、失敗は責任逃れし、あわよくば他人に擦り付けることに全力を挙げるかの二極化になっていませんか?上が無責任なら、心ある部下がいくら数名で流れを止めようとしたところで、流れは変わらないし、疲れるだけです。

なまじそこそこ優秀な中間管理職が積極的惰性でがんばると、現状打破には抜本的な大改革が必要という結論に大勢が達するまでに時間がかかりすぎ、それまで頭の体操をしてこなかったリーダー層や大勢は、思考停止に陥り、さらに感受性が高いせいか、思考停止に陥ると、安易に無常観や諦観の空気を作り、理性ではなく感情に支配され、耳に快く威勢のいい極論になびき、最悪の選択肢を取る。これが、真の問題サイクルだと思います。

日本人は、山本五十六や野村駐米大使等、こうした積極的惰性の挙句挫折する中間管理層を悲劇の人として語り継ぐのは好きですが、問題の本質に触れていませんし、解決にはなりません。終戦締結時にミズーリ号での調印式に首相を始め陸海軍大臣は全員署名を拒否しました。署名したのは、軍人は誰もおらず、重光葵外務大臣ただ一人です。負けることが分かっていた戦争に日本を引っ張っていったトップがどれほど責任感を有していたか分かるというものです。

リーダーの戦い
そこで、本当の意味で問題解決を考えるなら、当時の政治リーダーたちの軍部の暴走を止める努力を振り返ることの方に意味があると思います。

政治家として最も断固として軍部の暴走を止め、中華民国との関係を修復する意思を持っていた人物は、犬養毅首相です。首相就任以前から亡命中の孫文や蒋介石を始め多くの中国人留学生を支援していました。そして彼らがめでたく中華民国を建国し、1913年国会を開設すれば、初代の国会議員のうち、下院議員の11%、上院議員の60%が日本留学あるいは研究経験を持つといった状態*でしたから、犬養氏には交渉相手がどういう人物かを熟知しており、事態を収拾できる自信はあったでしょう。

しかし、首相が中国に送った密使からの通信を「東洋のセシル・ローズ」を自認したといわれる森恪外務政務次官が握りつぶし、工作を失敗させたと言われています。さらに、首相になったのもつかの間、半年後の1932年五・一五事件で海軍将校に射殺されてしまいました。犬養首相以後終戦まで、首相は元老や重臣が推す形となり、民主政治が制約を受け、ほぼ軍部関係者しか首相になれない時代になってしまいました。

同時期、協調外交をけん引していた幣原喜重郎外務大臣も奮闘しました。満州事変直後石原莞爾等関東軍の暴走を止めるべく、金谷参謀総長に働きかけ、満州の軍閥・張学良の拠点であった奉天(現在の瀋陽市)より拡大しないということで合意を得ました。(当時は勅令を出して本気で止める気でいました。)

しかし、関東軍の動きを不安視したアメリカのスティムソン国務長官を安心させるため、発表前にオフレコで幣原外相が話したところ、スティムソンがアメリカのメディアに話してしまいました。それが日本にも報じられると、軍の機密事項を外国首脳にリークするとは何事か、という意見が大きくなり、幣原外相や参謀総長を始め東京への不信感を関東軍は抱くようになりました。結果、東京のいうことを聞かずにますます暴走を許すことになってしまいました。**

ちなみに皮肉な話ではありますが、石原莞爾に触れておきましょう。最初の関東軍の暴走を企画・指揮した石原莞爾が参謀本部作戦課長として東京に戻り、大陸にいる元部下の武藤章等のさらなる暴走を止めようとしました。しかし、現地での小競り合いを盾に、さらなる増派を許さざるを得ませんでした。実のところ、彼の停止命令は、武藤等の冷笑に合うばかりでした。(ちなみに、この冷笑の代償は東京裁判を経ての絞首刑です)

少し脱線しますが、この時代満州までは日本の勢力圏という考え方があります。現代の感覚では理解しがたい点であるので、少々解説が必要かもしれません。清は元々満州の騎馬民族が明を飲み込んで作り上げた帝国でした。よって、清時代中国人も日本人も中国の領土は万里の長城の内側であり、清の皇室である愛新覚羅氏の出身地・満州は中国ではないと理解していました。清朝の皇帝も代々満州を中国化させる気はなく、別個の扱いをしていました。

一説では孫文等は清朝を打倒するために日本へ支援を求めた際にその代償として満州での日本の権益を認めるというような取引がなされたと言われています。孫文等もそう簡単に清朝が崩壊するとは思わず、清朝の残党が引き続き満州周辺で国を維持するであろうと想定していたと考えられます。その場合、列強が満州を支配し、新生・中華民国を北から脅かすよりは友好的な日本が満州にあった方がよいという計算が働いていたのでしょう。

しかし、いざ清朝を滅亡させてみると、清朝の残党と呼ぶに足る忠臣は存在せず、なまじ約3世紀も清朝の下にいたためにいつの間にか満州も中国の一部という認識が中国内で広がってしまった一方、日本の上層部は上記の取引は有効であると思い続けていたので、中国側の上記取引関係者は板挟みになってしまったと推測されます。この取引は中国人にとり売国奴的取引であり、黙って墓場に持っていく類の秘密ですので、歴史学者がまず証拠や証言を得ることはないでしょう。

とはいえ、情けないのは、一人がルールを破ってしまえば、状況に関係なくなし崩し的にルールを破って手柄を得ようとごり押しする下衆の嫉妬心、卑しさでしょうか。石原莞爾一人に「手柄」を独り占めさせまいと、日本の体力も周囲への影響も考えずに、武藤章等は戦域を広げ、収拾不能に陥り、海軍は南進を主張しました。これでは、崩壊しない方がおかしいです。当時の首相に以前紹介したビスマルク首相並みの政治力と洞察力があれば、満州で日本の権益拡大を止める芸当はできたかもしれません。(しかし、やはり日本が満州をうまく経営できたかは不明ですが)

話を戻して、こうしたリーダーの戦いは不発に終わり、多少心を持っていたかもしれない上層部は首をすぼめ、軍部の暴走を止められない「軽い神輿」に成り下がるか、白洲次郎のように目端の利く人々は戦後に期する心で鳴りを潜めざるを得ませんでした。

犬養首相や幣原喜重郎のようなリーダーに関する理解や研究がもっともっと深まることを期待します。

歯止めの仕組みはあるのか?
日本人は相対的に個々人がそこそこ優秀であり、従順なので、立場上の不利を覚悟するリーダーは生まれにくいですし、部下の側からも諫止の気概は少ないです。

そのためでしょうか、古代中国と同様に江戸時代には争臣・諫臣というポジションがありました。日本でも「誰が猫に鈴をつけるか」といいますが、まさに猫に鈴をつけるネズミならぬ臣下です。中国では唐の魏徴が有名です。魏徴は、「貞観政要」で有名な唐の二代目皇帝太宗に仕え、よく登場する人物です。日本の場合、米沢藩主上杉鷹山の改革を阻止すべく鷹山に諫言した諫臣がいましたし、今年の大河ドラマの主人公・渋沢栄一を見出した徳川慶喜の側近、平岡円四郎も諫臣でした。

現代でいえば、社外取締役が近いでしょうか。現代用語でいうガバナンスという観点から社外取締役を設置する目的は、組織の継続的繁栄であり、取返しが聞かないほど過誤が大きくなる前に回避策をとることができるよう、外部の視点を取り入れることを旨としています。

民主政治でいえば、議会での政党間の議論を通じて国家運営の方向性を決める仕組みや、一個人や一役職に過大な権限を与えずに大統領や首相の任期を設けた上での選挙制度でしょうか。

しかし、仕組みがあればよいというわけではありません。あくまでも運用するのは人なので、運用する私たちが、積極的惰性が広がる前にリーダーに決断や改革を促すべきであり、リーダーもそのために存在するものと理解していないと意味がないことを、肝に銘じるべきでしょう。
*山室信一著「思想課題としてのアジア」(アジア主義に関する第一級の大著です)
**服部龍二著「幣原喜重郎と二十一世紀の日本」

 

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※当文章は著者の個人的見解であり、所属団体の意見を反映したものではありません。