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東京IPO特別コラム:「歴史の重み:イスラム・古代〜中世」

〜語られないものを視る眼〜


歴史の重み:イスラム・古代〜中世


今回は現代の中東を理解する目的で、あまり知られていないイスラムの歴史をみていきたいと思います。

アラブ人のルーツ

アラビア半島の南端にあるイエメンは、農作物がとれる豊かな土地です。このイエメンの地にアラブ人のルーツがあると言われています。ただ、土地が養える以上の人口が増加すると、余剰人口は内陸の砂漠にいくか、海に出て貿易等に従事するという選択肢を部族単位で選ばざるを得ないという営みを繰り返していました。

ただ、海に出ると言っても、彼らの行動範囲は非常に広いです。紅海、アラビア半島、インド洋、東南アジアを結ぶ環インド洋交易圏は、紀元前後から形成されていたと言われています。その広さの秘密は、上手く季節風(貿易風)を使う点にあります。アラブ系、ペルシャ系の商人もモンスーンに乗ってダウ船(帆船)で東アフリカ沿岸に来航し、3月から5月ころに北東風に乗ってインド、東南アジアへ来航し、8月から10月ころに南西風に乗って帰るというものでした。そして、この貿易ルートに沿う形で、現在のイスラム圏の分布が理解できるように思います。

 

イスラム教誕生の意味

開祖マホメッドの生涯とその後のウマイヤ朝をみると、源家・北条家の関係に近いという印象を持ちます。マホメッドは裕福な商人一族の女性に見初められて結婚し、妻ハディージャの家(ウマイヤ家)の力を大いに活用し、昔から多神教の神殿がある聖地メッカを一度は追われながら、後に手中に収め、版図をアラビア半島の一部に広げ、多くの信者を獲得することができました。

マホメッド自身は神(アッラー)から預言者として指名されているから信者からみた正当性は保証されているものの、マホメッドの死後すぐに後継者問題に直面します。(源頼朝同様、後継者の認知を十分に行う前に亡くなりました。)そしてこの後継決定ルールの不在(お家騒動リスク)は、全てのイスラム王国で王位継承のたびについて回ることになります。

恐らくマホメッド自身が後継者に考えていたのは、ハディージャとの間に生まれた娘の婿にして自分の親族であったアリですが、マホメッド死去時点ではまだ周囲を納得させられるだけの年齢も実力もありませんでした。つまり、お家騒動の下地は十分ですね。ただ、有能なアリはハディージャ一門(ウマイヤ家)の長老たちを差し置いてマホメッドの後継者の地位(カリフ)を求めず、賢明にもハディージャ一門の長老たちに譲りました。

さて、世俗的な観点からマホメッドがアラブ人に示したものは、それまでの部族単位を越えて団結することにより生まれる力(武力)の大きさでした。加えてその頃、周辺の2大国、東ローマ帝国とササン朝ペルシャ帝国が衰退期にありました。世俗的な方法で選出された2代目カリフは、こうした力の空白を上手く利用するという世俗的な選択をし、当時豊かなシリアの都市ダマスカスを征服しました。(この王朝は、最盛期には今日中東と呼ばれている地域のうちトルコを除く全域と、東方では旧ソ連邦の中央アジアやパキスタンの一部、また西方では今日のスペインやポルトガルの領域にまで広げました。)

そしてこれだけ既得権益が大きくなってしまうと、長老が不在となった頃アリが満を持して4代目カリフを名乗っても、ウマイヤ家は黙っていません。結局あっという間にアリは暗殺され、以後カリフ職はウマイヤ家の世襲となります。この際に、ウマイヤ家カリフの正当性を認めず、アリとその一族を代々カリフとする立場の人々をシーア派、認める人々をスンニ派とに分かれることになります。(原理・原則を重視するか、当時の政治力情勢を考えるか、で個性が出ますね)

さて、ウマイヤ朝では初めてアラブ人がその支配下に非アラブ人を持つこととなり、国家としては非イスラム教徒にはジズヤという税(ある意味安全保障代)を払えば改宗の必要はないとしました。キリスト教会はやたら異教徒を弾圧したのに対し、商人的な合理性を感じます。

なお、「コーランか死か」というセリフがありますが、実はこれもヨーロッパ側のプロパガンダです。イベリア半島でどうしてもレコンキスタ(イベリア半島をイスラムからキリスト教徒の手に取り戻す運動)を成功させたかった、あるキリスト教聖職者が意図的にヨーロッパに誤ったイスラム像を植え付けようと企んだのでした。あるイスラム学者は、「十字軍時代のヨーロッパ人の間で作られた「歪められた」イスラム像」を次の4つにまとめている。?イスラムは虚偽そのもので、故意に真実を曲解している。?イスラムは暴力と剣の宗教である。?イスラムは性的にだらしのない宗教である。?ムハンマドは反キリストである。」*古今東西、戦争にプロパガンダはつきもののようです。。。

さて、多くの異教徒は節税対策で改宗しますが、同じイスラムでもアラブ人対非アラブ人で差別感は拭い去れませんでした。(当時文化的にはペルシャの方が上でしたので、アラブ人の劣等感を何らかの形で発散したかったのでしょう。。。)

こうした不満と上記のお家騒動リスクの度重なる顕在化により、アッバース革命が起き、アッバース朝が興ります。(但し、イベリア半島のみは、アリ家の一人が逃げ延び、別の王朝を築きました。)この頃になれば、純血のアラブ人のみがもはや帝国の支配階級というわけではなく(非アラブ人の女奴隷との間に生まれた子がカリフになることが多かった)、その他大勢と同じような扱いになり、イスラム社会はよりコスモポリタンなものに成長していきます。首都もダマスカスから現イラクのバグダッドに移ります。

このアッバース朝は、広大な帝国にありがちですが、各属州に国守を派遣し、現地の有力な一族(アミール)と調整しながら統治する形態をとるものの、やがて地方は中央のいうことを聞かなくなり、最終的にはモンゴルにより滅亡しました。しかし、8―13世紀と長い統治期間中に、イスラム社会は成熟し、現代の原形が見えてきます。

 

ここでその特徴を見てみましょう。

1.政府とは、行政機能のみを指す

現代日本等では行政府の行いに聖職者が物言いをすることはありませんから、こうした考えに未だ則り、聖職者の法解釈を待つといったイラン政府の姿勢が、分かりにくく感じます。

しかし、イスラム社会では、法体系はイスラム法に依拠します。そのイスラム法とは、コーランかマホメッドの言動を直に見聞きした人々の体験談をまとめたものをベースとし、聖職者が法解釈するので、統治者もこの法解釈に従うという建て付けです。故に、立法と司法はイスラム法で規定済みなので、統治者以下の政府の役割はイスラム法に準拠するように行政を司るということになります。

2.ヒトもカネも「ゆく川は絶えずして」

国境内に民を押し込める概念もなく、むしろ一生に一度はメッカへの巡礼を奨励しています。「公正な取引が、イスラームの理念となった。イスラーム法は、為政者が人々の移動の自由を奪うことを許さなかった。人々を特定の都市や土地に縛り付けるのはもってのほかなのである。また、商取引を規制することも許さなかった。人々は、原則として権力の介入なしに、自由に取引するのである。

メッカやバグダードに限らず、イスラーム世界のどの都市にも、「市民」はいなかった。「市民」という特定の人々だけに特権を与えることをせずに、誰でもがそこに住めて、そこで商売ができる空間が、イスラーム世界の都市なのである。イスラームは、都市の発達していた中東社会の、その自由闊達さを保証する理念として、存在したのであった。」*

そして、実にこの時期驚くほど人々の移動の軌跡が残っています。中でも特筆すべきは、大旅行家イブン・バットゥータです。現在のモロッコ出身で故郷から北アフリカを横断しメッカへ巡礼し、さらにインドや中国にまで旅行したと言われています。しかも興味深いのは、職業が商人ではなく、法学者(法解釈できる裁判官)なのです。そのため、旅行先が気に入れば、イスラム圏である限り現地で就職できるわけです。

裏を返せば、ここにイスラムの画一化が垣間見られます。「マドラサ(イスラム知識人養成機関)のカリキュラムは、アラビア語学からコーラン学、ハディース学に始まり、イスラム法学に至るわけだが、それはイスラム世界のどこででも、ほぼ同じであった。それゆえ、学生はどこででも学べたわけだが、逆にいえばどこで学んでも、ウラマーの教養は大差なかったのである。

それは、一面では、イスラムの画一化をもたらし、イスラムの発展をこの時点で止めてしまった。しかし、別な一面では、同じ教養をもつウラマーを全イスラム世界的規模で養成したわけだから、イスラム世界の均一性をもたらした。イスラム世界は、同一の教養をもつウラマーの存在によって、ひとつの世界であり続けたのである。」*

また、以前お話したと思いますが、カネについても、イスラム金融では利息はいけない行為という建前です。その理由も、カネは回り続けるべきだという発想です。「(アラブ人社会を)活性化するためには、金という交換手段を有効に流通させればよい。それには、誰もが後生大事に抱えている金を社会に吐き出させねばならない。(中略)インフレ社会で(中略)金をため込むのは、利息があるからだ。利息をなくしてしまえばよい。物価が上昇するのに、利息なしの金を抱えていれば損をするので、誰もが金を投資する状態に追い込まれる。かくして社会が活性化される。しかし、悪事への投資は、社会に害毒をまき散らすので、善良な行為にのみ投資を誘導しなければならない。」**(但し、この規則は昔から数多く破られていますが。。。)

 

そして、投資のみならず富める者には寄付(ワクフ)を求めます。そこでも、一度きりの献金ではなく、収入源の一部を寄付する形もありました。例えば、モスクを1つ寄付するにしても、併せて近くに市場を建て、そこでの賃貸料収入でモスク運営費を捻出できるようにしたり、資産の賃貸料収入の一部を寄付することで、モスクに併設されるマドラサの教授の給料が賄えるようにする等、後々の運営で行き詰まらないようにとの工夫がなされています。(但し、都市社会で賃貸商店や賃貸アパートがある前提ですが。)こうして、現代では政府の責任範疇とされる社会福祉の大きな部分は、このようなワクフ制度を通じて賄おうとしていたのであり、このような思想を含んだイスラム教はしっかりと人々に定着していったのでした。

 

このようにみていくと、「都市社会の文明の体系であるイスラムは、ヨーロッパのように生産や労働を重んじる思想や、それを保証する社会関係を発展させることはなかった。もっぱら商業・流通を円滑にするための、思想と社会関係を発展させたのである。」*非常に考えさせられる考え方ですね。

 

残りの特徴はまた次回にしましょう。

 

*佐藤次高・鈴木董編「都市の文明イスラーム」

**広瀬隆著「世界石油戦争」




本コラムの執筆者

吉川 由紀枝 ライシャワーセンター アジャンクトフェロー

慶応義塾大学商学部卒業。アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)東京事務所にて通信・放送業界の顧客管理、請求管理等に関するコンサルティングに従事。2005年米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院にて修士号取得後、ビジティングリサーチアソシエイト、上級研究員をへて2011年1月より現職。また、2012-14年に沖縄県知事公室地域安全政策課に招聘され、普天間飛行場移転問題、グローバル人材育成政策立案に携わる。

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