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東京IPO特別コラム:「歴史の重み:イスラム・中世〜近代」

歴史の重み:イスラム・中世〜近代


 

イスラム内の権力は大部分トルコに集約

ヨーロッパのルネッサンスまでの時期、イスラム商人の富の源泉は、地中海の制海権と東西間貿易の中継地であったことです。当時はエジプトを支配したファーティマ朝とオスマン・トルコ帝国の海軍力により、地中海は平和な海でした。しかし、ファーティマ朝が衰退するにつれ、ジェノバ等イタリア都市国家勢が海賊行為を行うようになり、キリスト教徒との貿易に寛容であったイスラム商人も不寛容になってきます。

 

加えて、ポルトガルがアフリカ大陸を回ってインドに達するルートを発見しました。また、オスマンがイスタンブール東西間貿易の拠点にしようと画策するようになり、カイロにできるだけ香辛料がいかないように努力するようになり、これがファーティマ朝への致命傷で、それまでの貿易拠点として繁栄していたカイロの地位は、イスタンブールへ取って代わられました。そして、ファーティマ朝と仲が良かったヴェネツィア共和国にも陰りが見えてきました。

 

最終的には、オスマン海軍が地中海の制海権を握り、陸軍が地中海東側沿岸(シリア、エジプト)やアラビア半島を制圧し、ペルシャ帝国と国境を接するほどに拡大し、今度はトルコ民族がカリフを名乗るようになりました。一方、中央アジアで一大時代を築いたモンゴル帝国も、ジンギス汗が死去し、その際にいた場所で王国を作り、緩やかなモンゴル帝国を作るようになり、やがて土着し、イスラム化しました。(このモンゴル帝国のなれの果てを「タタールのくびき」と呼び、ロシアがピョートル大帝の時代まで恐れおののいていました。)その子孫の一部がインドに行き、ムガール帝国を築きます。(ムガールとはモンゴルの意味)

 

ヨーロッパに圧されるトルコ

隆盛期には、ウィーン市を2回も包囲するほどにヨーロッパを脅かせたオスマン帝国ですが、その軍事力はやがてヨーロッパに追いつかれ、「ヨーロッパの病人」と呼ばれるまでになります。最初は16世紀にオスマン帝国が奪い取ったハンガリーやバルカン半島を、ハプスブルク家を中心に奪還していきます。

こうした蚕食から領土拡大の好機を見たヨーロッパ勢は、この「病人」の持つ遺産の大きさの前にけん制し合うようになります。その例がクリミア戦争です。これは南下政策を進めていたロシアがオスマン領クリミア半島に食指を動かしたため、イギリスがオスマン帝国を支援し、その野望を打ち砕いたのでした。(とはいえ、イギリスが高潔なわけではありません。後述しますが、イギリスはイギリス流にその食指を伸ばします)

 

また、こうした好機を見たのは、ヨーロッパのみならず、エジプトも同じでした。エジプト地方総督であったムハンマド・アリ―が、オスマン帝国を裏切りエジプトを独立させました。

国内的には近代国家を目指し、徴税請負制の廃止と土地の国有化、綿花等輸出用農作物の専売制度による殖産興業、軍制改革と工業化を介した富国強兵政策を追求した一方、対外的にはシリアへ領土拡大を狙いました。(ヨーロッパのいう、「東方問題」)

 

オスマン帝国側がロシアに救済を求めたことから、エジプト側に英仏が味方に付き、ヨーロッパ内の交渉により、エジプトはシリアを断念させられます。一方、ヨーロッパ側にすれば、中東進出の機会を狙っていた折でもあり、「「東方問題」は、ムスリム諸王朝の領土割譲、その支配下にあった諸民族(特にキリスト教徒)の独立と自治の獲得、不平等条約の締結、数多くの利権供与など、イスラーム諸国の事実上の半植民地化によって決着がついた。また「東方問題」は、ムスリム諸王朝の支配する中東地域の伝統的な市場圏の自己完結性を打破し、それを世界資本主義体制の中に組み込む役割も果たした」*という結果となりました。

 

イスラムの対応・トルコ編

さて、オスマン帝国もこうした周辺国からの辺境での攻撃に連戦連敗を重ね、全く手をこまぬいていたわけではありません。しかし、頭でわかっていても体はなかなか動かないもの。ましてや600年近く続いた大帝国です。まずは、軍事力の分野に限りヨーロッパから学ぼうということになりました。兵器を購入し、ヨーロッパから軍事顧問団を招聘し、自国将校らをヨーロッパ留学させる等しました。さらに、そもそも中央政府に財力を増強すべく徴税請負制を廃止し、イスラム(シャリア)法では追いつかない部分は世俗法を制定する等一連の行政、法教育を中心とした一連の近代化改革を行いました。

 

一方、ヨーロッパから様々な技術や思想を輸入していくにつれ、ヨーロッパとの戦いで連戦連敗の報に接するにつれ、オスマン帝国の人々の間でもどう対応すべきかが議論されます。考え方は大きく2つあります。1つは、イスラムでまとまって外敵に対抗しようという考え方(汎イスラム主義)、もう1つは民族でまとまる考え方(民族主義)です。

 

汎イスラム主義を広くイスラム圏に広めたのは、ジャマール・アッディーン・アルアフガニ―(アフガーニー)と言われます。アフガニスタン、インド、エジプト、イラン、オスマン帝国、さらにはロシアとフランス等ヨーロッパ諸国に赴き、「各地でヨーロッパの脅威に対抗する団結をよびかけ、秘密結社や政治組織を作り上げながら、革命や民衆運動の指導的中核を育て上げた。(中略)アフガーニーはイスラームを信仰と同時に文明として理解している。イスラームが現世でも文明として活力を保つためには、内的改革と外敵防衛が不可欠であり、西欧の科学・技術の摂取もイスラームの合理主義的立場から正当化されると考えた。

イスラームが現世の力であるとすれば、ムスリムが果たすべき義務は信仰の敬虔さを競うよりも、共同体への忠誠心を具体的な政治活動で証明しなければならない」*と言っています。彼の生きた時代には報われませんでしたが、その思想は後世に多大な影響を残しました。(この点については後日後述予定)

 

しかし、イスラム内の結束を意識するようになれば、イスラムが持つアラブ的原点に注意が行くことになり、既に衰弱した非アラブのトルコ人のカリフの下に結束する正当性に疑問

が投げかけられるのは避けられません。さりとて民族主義でまとまろうという話になれば、多くの民族を抱えるオスマン帝国は崩壊してしまいます。こうしたジレンマを解決できないまま、第一次世界大戦が勃発し、オスマン帝国は解体されました。

そんな混乱期に登場したのが、ケマル・パシャこと、ムスタファ・ケマルです。帝国の衰退期には往々にして過去の栄光を追いかけようと悪あがきするものですが、彼は大英断します。すなわち、オスマン帝国の原点とは何かを問い、現在のトルコの大地に根付いたトルコ民族の農民であるという結論、即ち民族主義に至ります。そして、農村地域から国民運動をおこし、トルコ共和国を成立させたのでした。

 

ケマルは、原点以外のオスマン帝国時代の遺産は全て放棄し、他民族が住むバルカン半島、シリア等の東地中海沿岸、アラビア半島からイラクまでの旧領土に対する未練を持たず、身の丈で生きていくことを選択しました。そのためには、農民とは縁遠い、外国貿易の中継地であるイスタンブールを首都とせず、内陸部のアンカラに遷都しました。イスラム国家の最高権威であるカリフ位も捨て、世俗社会となりました。在トルコのギリシャ人と在ギリシャのトルコ人を交換移住させ、クルド人やアルメニア人の虐殺も厭わず、強引な部分もありました。(こうした経緯からクルド人とトルコ人との間には、緊張関係が現在にも続いています。)とはいえ、ここまで徹底したことが成功の秘訣でした。

 

但し、精神的にはもちろん経済的にも、かなり難しい選択でした。当時トルコ人は、軍人、農民、官吏の職業に就いていることがほとんどであり、中産階級もなく、商工業ブルジョワジーも存在しませんでした。どんな田舎でも、商売や金融機能はギリシャ人、アルメニア人が担っていたため、彼らがいなくなってしまうと、トルコ人の中でこの空白を埋めざるを得なくなりました。

 

もちろん、トルコ人の自助努力が上手くいかないタイミングを、いくつかの外国系財閥が待ち構えていました。ケマルの反対勢力の中心にフリーメーソンの重要人物であり、国際資本に影響力をもついくつかの財閥と関係があった、サロニカ出身のユダヤ人、ジャヴィードがいました。そこで、自身の暗殺を計画するよう仕向けておいて、ケマルは逆に一網打尽で逮捕してしまいました。当然後ろで糸を引いていたウィーンのロスチャイルド家、ロンドンのサッスーン家が釈放運動をしましたが、外国干渉を極度に嫌うケマルは応じませんでした。**

 

このような苦しい状況下でしたが、ケマルというブレない、ビスマルク的リーダーシップの下、外国資本に依存せず、国家が再建事業を指導する形で自由競争を制限しながら財政危機を乗り越え、自力で近代化していきました。(この点は日本に大分似通っていますね。)

 

*板垣雄三・佐藤次高編著 「概説イスラーム史」

**ブノアメシャン著 「灰色の狼 ムスタファ・ケマル」(良書です。ご一読をオススメします)

 




本コラムの執筆者

吉川 由紀枝 ライシャワーセンター アジャンクトフェロー

慶応義塾大学商学部卒業。アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)東京事務所にて通信・放送業界の顧客管理、請求管理等に関するコンサルティングに従事。2005年米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院にて修士号取得後、ビジティングリサーチアソシエイト、上級研究員をへて2011年1月より現職。また、2012-14年に沖縄県知事公室地域安全政策課に招聘され、普天間飛行場移転問題、グローバル人材育成政策立案に携わる。

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