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東京IPO特別コラム:「フランクリン・ルーズベルトという巨人 その1」

〜語られないものを視る眼〜

歴史の重み:フランクリン・ルーズベルトという巨人 その1


イスラムの話の続きは現代の時にお話しするとして、今回はフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領(以下FDR)について書きたいと思います。この巨人の大きさを測り知るため、いくつかの観点から他者と比較していきたいと思います。

第一次・第二次世界大戦参戦への道のり:ウィルソン大統領の場合ウィルソン大統領とFDRの最大の違いは、理想主義と現実主義の違いでしょうか。

ウィルソン大統領は、元々牧師の家系の出にして、元プリンストン大学学長という政治学者で、今でもアメリカ歴代大統領の中で唯一博士号保持者です。よく言えば信念があり、悪く言えば相当な頑固者で、高尚な内容の演説で当時人気があったようです。

第一次世界大戦開戦当初、アメリカはヨーロッパのエゴイズムむき出しの闘争に関わらず、中立を保つことで西洋文明の優位性を維持したいと考えていました。よって、特別アメリカ国民に対し事前に参戦に向けて働きかけていませんでした。

また、ヨーロッパ側も開戦当初アメリカ参戦を必ずしも必要と考えていませんでした。それだけイギリスが大英帝国としての力を恃んでいた時代でもありました。むしろ3か月程度に終わるはずの戦争と高をくくっていたのですが、大きな誤算がありました。

戦争長期化の主な原因は、塹壕戦です。塹壕から出て戦えば双方大損害の血みどろ戦となってしまい、結局塹壕の中で互いに敵がやってくるのを待ち構え、兵士たちの足を水虫にしただけで、いたずらに時間がかかってしまいました。

こうした行き詰まりを解決しようと続々と軍事上の技術革新が生まれていきます。中でも戦車、飛行機、潜水艦が筆頭でしょうか。但し、飛行機は空軍という形で陸軍や海軍から独立するのはまだ先ですが、当時は陸海軍の下で偵察や爆撃を担うようになりました。加えて、チャーチル海軍大臣時代の下、英海軍の動力は石炭から石油に転換しました。(さすがブリティッシュ・ペトロリアム社の大株主ですね)また、弾薬も従来の戦争よりも格段に多く消費されるようになり、弾薬を製造していた化学メーカーのデュポン等が大儲けし、後に「死の商人」とレッテルを貼られました。

その一方で、戦争長期化による影響は、イギリスという島国にはマイナスに働きました。大英帝国内外で物資調達し、イギリス本土へ送るわけですが、この補給路を断とうとドイツのUボート潜水艦が大活躍し、中立国の国民も被害に遭います。

ここで興味深いのは、イギリス船に乗っていたアメリカ人乗客がUボートの被害に遭っても、それを参戦理由とせず、ウィルソン政権は厳重抗議にとどめていたことです。そうしたイギリス船には軍需物資が搭載され、中立国であるアメリカ政府にはアメリカ国民に同盟国の船舶に乗船しないように事前警告があったため、公平に見てどっちもどっちだったからでした。

しかし、ウィルソン大統領を直接的に参戦に駆り立てたのは、ドイツがメキシコへ秘密裡に送った、アメリカ攻撃を誘う電報でした。しかし、本当のところはそれ以前からウィルソン大統領による調停努力が思わしく進まなかったこともあり、彼の頭の中で次のような考えに行きついたからでした。すなわち、アメリカが平和に生きていくためには、アメリカが世界秩序を新しく樹立せねばならず、そのためには第一次世界大戦の講和会談に出席し、リーダーシップを発揮することが必要であり、そのためには第一次世界大戦に参戦する必要がある、ということです。*実際、平和の14箇条に繋がる、平和と安定のための原則を発表し、ヨーロッパ首脳たちに伝道するため戦後の講和会談に臨んだのでした。

しかし、所詮は頭で考えた理想論であって、現実解には全くなりませんでした。「フランスのジョルジュ・クレマンソー、イギリスのデービッド・ロイド・ジョージ、そしてイタリアのヴィットリオ・オルランドは、(中略)戦争中秘密協定を調印し、ドイツを犠牲にして自国の帝国拡大を図っていた。かれらの領土拡張の野望や帝国主義的分け前を否定しようとする、頑固で自己陶酔したウィルソンを彼らは冷笑した。そしてウィルソンに対して、自意識過剰に合衆国の力を行使している神学者という判断を下し、ウィルソンの講和のための青写真に挑戦した。クレマンソーは、「神は我々に十戒をお与えになられたけれども、我々はそれを破った。ウィルソンは我々に14箇条を与えた。さて我々は守ることができるかどうか」と述べた。」*

また、アメリカ国民も同様でした。「戦争は汚れた醜いものであり、ウィルソンの高尚なレトリックが掲げたような輝かしいものとははるかに違っていた。(中略)明らかに理想主義にはうんざりし、そして不正をただせるという彼らの能力をせせら笑って、普通の生活に戻りたがった。」*

そして、結局は大統領の意図とは別に、随行したモルガン商会の代理人が主導し、モルガン商会やロスチャイルド家が投資した英仏戦時国債償還の財源を確保すべく、ドイツに法外な賠償金やほとんど軍事力保有を許さない規制を押し付け、これがドイツ国民の恨みを買い、来るべき第二次世界大戦の種をまいたのでした。メッテルニヒ宰相やビスマルク宰相が持っていた、敵国の生存権への最低限の配慮を欠いた、資本の理論のなせる業と言えます。

また、ウィルソン大統領が望んだ国際連盟にも、米上院の賛同を得られず、参画もかないませんでした。もちろん、議会対策においてウィルソン大統領が政治家らしからぬほどに非妥協的であったこともありますが、その根底には未だ根付いている帝国主義への不信感があったと言えるでしょう。「利己的で、領土拡張の野望を国際組織の取り決めに従わせようとしない帝国主義列強が支配する世界で、アメリカ人は集団的行為に義務的に拘束されるよりも伝統的な非同盟と選択の自由を」*、リアリストの眼で選択したのでした。

但し、全くウィルソン大統領の理想論が無意味であったわけではなく、戦後の1920年代は確かに国際協調の機運が高く、国際連盟は生みの親抜きでも誕生しました。また、軍縮時代として大国たちは第一次世界大戦の軍備を縮小し、この頃日本でも、国際協調の潮流に沿った幣原喜重郎外相による幣原外交が、花開いたのでした。

第一次・第二次世界大戦参戦への道のり:ルーズベルト大統領の場合対照的にFDRは、開戦当初からいずれは参戦することになると考え、その準備(軍備拡張)の好機を虎視眈々と狙い、国民へ説得しようとしていました。チャーチル首相からは常に支援要請が来ていましたが、これに対し当初アメリカが十分に軍備できていないため、それまでの時間を英仏が単独で戦うことで稼いでいてほしいと話していました。

そして、世論が許しそうな範囲を見極めながら、大軍拡計画をぶち上げました。それまで世界恐慌の責任を大企業経営者、以前お話ししました泥棒男爵たちに着せ、デュポン等を「死の商人」と呼び、非難する先頭に立っていたFDRは、突然彼らと協調せざるを得ない状況になりました。

そこで、国防諮問委員会(NDAC)を設置し、その委員には実業家とニューディール支持者とを対等な比率で混在させ、双方に満足感を与え、互いに戦わせつつ、キャスティングボードは自ら握るという巧妙な仕組みを編み出しました。例えば、労働者層に対処するために、労働界のリーダーにして産業別労働組合会議(CIO)設立の功労者の一人、シドニー・ヒルマンを、実際の生産過程、生産と原材料の配送、輸送の指揮等の実務面では、ゼネラル・モーターズの社長であり、たたき上げの典型的な例である大富豪の実業家、ウィリアム・クヌースン、USスチール会長エドワード・スティティニアス、シカゴ・バーリントン&クインシー鉄道の会長ラルフ・バッドを任命しました。**

目を見張るべき成果は、例えば造船でおきました。海運業では新参者でも天才的起業家のヘンリー・カイザーを起用しました。政府の資金を湯水のごとく使い、鋼鉄等の原材料はもちろん、クレーン、ブルドーザー等も可能な限りかき集め、製造方法もリベット工ではなく溶接工を用い、隔壁、甲板、船体等のパーツを別々に製造し組み立てるという大量生産技術を採用し、「一隻の船舶の建造に要する期間は1940年の平均355日から1941年には194日、1942年初めには60日に短縮」**されたのでした。

そうこうしているうちに、「新工場が造られる一方、ありとあらゆる製造会社がかつての工場施設を武器製造に切り替える動きを見せていた。メリーゴーランドの工場は砲架を作るためにその設備を利用していた。コルセットの工場は手りゅう弾の保弾帯を製作していた。ストーブ製造業者は救命ボートを製作していた。(中略)引き続き原材料が不足していたにも拘らず、1942年には建国以来最大の生産の伸びが記録されることにな」**りました。

FDRの伝記作家、グッドウィン氏はこう評しています。「アメリカ国民の力に内在するダイナミズム、それを動員する方法、利用する方法、またその限界を見極める方法を彼ほど理解していた人物はいない。それはいったん動員されれば、駆り立てられる必要はなかった。うまく導かれさえすればよかったのだ。」**

現代日本で例えていえば、京セラ創業者稲森和夫、ソフトバンク創業者孫正義等を防衛省、防衛調達庁の高官として雇用し、民間的な手法で効率よく軍需品を製造するよう様々な企業と折衝させ、斬新なアイディアで軍需品大量調達を可能とする、といったところでしょうか。かなり大胆な発想です。当時でも日本の何倍のGDPを持っていたアメリカが、こうした努力をしたのに対し、日本の戦時体制化への努力がいかほどのものだったか、よく考えるべきでしょう。

但しFDRは、今日のアメリカを見ている私たちにはかなり重要な決断ではありますが、1つの選択をします。それは軍産複合体の誕生を許してしまったことです。すなわち、大量物資調達する上で、中小企業ではなく大企業への発注がどうしても現実的、効率的になることがあります。そうした政府の弱みに付け込み、調達契約に応じないという資本家によるストライキに屈し、FDRはそれまでのニューディール政策の規制緩和・新法制定に応じました。
結果、「重要な契約のドル換算価値の3/4を大企業56社が占める」**という大企業ばかりに有利な状況が生まれ、軍産複合体の原形が1940年には誕生することになりました。

そのうち、イギリスから軍需品購入代金の支払いが難しくなってきたと言われたため、FDRは連合国へ武器貸与法を通過させました。隣家が火事の時に、隣の家人にホースの購入代金がないからといってホースを使わせない法はない、ホースを貸して後で返してもらえばいいではないか、という論法で、軍需品を「リース」するというものです。(当然タダではないのですが、これについては後述予定)ちなみに同じ論法で、今日バイデン政権が武器貸与法を活用し、ウクライナへ軍事支援をしたため、話題になりました。

そして、イギリスからアメリカ参戦要請が出てくる頃、FDRはまだアメリカ世論がそこまで熟成していないことに苦慮しました。そこで、Uボート対策として連合国への物資補給船に対し小規模な護送船団を構成しました。護送時に「事件」が起き、参戦の口実ができることを願って。。。実際にはその前に真珠湾攻撃が起き、幸か不幸かますます戦時体制を強化していくことになりました。

ちなみに、FDRは対日戦を契機として参戦する口実を求めていたという疑惑があります。しかし、FDRの眼はヨーロッパに向いており、軍需品を増産していたとはいえ十分に武装完了していたわけでもなく、戦力を2方向に振り向けることはなるべく回避したかったであろうことを考慮すれば、あまり信ぴょう性があるようには思われません。


このように比較すると、2大統領の参戦目的がこれほどまでに大きく乖離していることに驚かされます。また、ウィルソン大統領が理想という机上の空論に固執していたのに対し、FDRがいかにアメリカ世論に配慮しながら時間をかけて可能な限り参戦準備をしていたことが何とも対照的です。ウィルソン大統領はあくまでも政治「学者」であり、FDRは根っからの政治「家」なのでしょう。


*メアリー・ベス・ノートン他著 「アメリカ社会と第一次世界大戦」
**ドリス・カーンズ・グッドウィン著 「フランクリン・ローズヴェルト」上巻


本コラムの執筆者

吉川 由紀枝 ライシャワーセンター アジャンクトフェロー

慶応義塾大学商学部卒業。アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)東京事務所にて通信・放送業界の顧客管理、請求管理等に関するコンサルティングに従事。2005年米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院にて修士号取得後、ビジティングリサーチアソシエイト、上級研究員をへて2011年1月より現職。また、2012-14年に沖縄県知事公室地域安全政策課に招聘され、普天間飛行場移転問題、グローバル人材育成政策立案に携わる。

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