東京IPO

English

東京IPO特別コラム:「歴史の重み:イギリスからアメリカへの覇権移行」

一般的にイギリスがぼんやりとしていたので、いつの間にか覇権がイギリスからアメリカに移行したと言われます。しかし、実際には第二次世界大戦とルーズベルト大統領及びチャーチル首相という天の配剤がなければ起きませんでした。今回は、その経緯を見ていきたいと思います。

 

そもそも覇権とは?

これまで覇権を特に定義せずに書いてきました。辞書上色々定義できるでしょうが、ここでは世界レベルの場合、世界中に軍を派兵し、各地域で自らの意思を通せるだけの能力を持つと解釈しています。そして、最も大事な点は能力以上に動機があること、即ち世界中に権益、利益を持つ、あるいは持ちたいという強い願望がある必要があります。これがなければ、覇権を欲する理由がありません。

 

以下の4点が十分条件(能力)でしょう。

  • 自国を守る以上の余剰軍事力を持つ

  • 戦争遂行上必要な戦費を調達できる

  • 他地域への派兵を可能とする兵站能力を持つ

  • 他地域に関するインテリジェンスを持つ


これに以下の必要条件(動機)が加わります。

5.他地域における権益、利益を持つ、あるいは強く持ちたい

 

ヨーロッパで生まれた覇権を見てみると、最初にアジア航路、アメリカ航路を探り当て、インドネシア等香辛料生産地や金銀生産地を所有する必要条件が発生しました。この状態を継続させるには、母国から要所要所に中継地を持ち(兵站整備)、現地人あるいはライバルであるヨーロッパ諸国と戦うだけの戦費、兵士・ハイテク武器/艦隊等の投入能力(軍事力)、また現地人やライバルの現地での動向を知るためのインテリジェンスが必要となってきます。これらをスペイン時代は粗削りであっても、イギリスの頃にはその覇権ツールを精緻化し、ますます帝国という名の下に権益、利益を広げていきました。

 

第二次世界大戦前夜のアメリカの覇権受け入れ可能状態

では、第二次世界大戦前夜のアメリカは、覇権を持つ準備はどれだけできていたのでしょうか?

 

アメリカ参戦前、ルーズベルト大統領はアメリカを「民主主義の兵器工廠」とすると宣言していましたが、そのスタート地点は自国防衛もままならないほど武器類を欠き、人員も足りないという状況でしたので、とてもではないですが余剰軍事力は全くありませんでした。当時の米軍幹部は、こぞってルーズベルト大統領にヨーロッパの戦争に関与すべきでないと進言していたほどです。

 

そして、当然海外派兵を想定した兵站能力も必要ありませんでしたが、イギリスがアメリカから購入する武器や食料等を購入する外貨にも事欠く有様でしたので、ルーズベルト大統領は武器貸与法を編み出しました。戦後連合国が武器類を返却するという形で、戦中はアメリカが無償でイギリス等に武器類を送り続けられるようにしました。この代償として、ルーズベルト大統領は、「ニュー・ファウンドランド、バーミューダ、バハマ 諸島、セント・ルシア、トリニダッドおよび 英領ギニアにある空軍および海軍基地」*へのアクセスを得ました。

 

イギリスにとり、西半球におけるイギリス権益防衛コストをアメリカが肩代わりするというメリットもありましたが、これが、アメリカにとり、海外派兵を前提とする兵站能力への第一歩となりました。そして、戦中に北アフリカ、ヨーロッパ大陸、太平洋諸島、東南アジア、日本への兵站能力を次第に構築していきます。

 

加えて海外の様々な地域でのインテリジェンス収集、分析能力もありません。アメリカの海外権益は西半球を除けば、ハワイ、フィリピン程度でした。ちょうどその頃中東の石油油田が開発されようとしていた時期であり、アメリカ企業が参入しようとしてもヨーロッパ企業に圧されてなかなか進出できませんでした。

 

すなわち、アメリカが唯一持っていたのは、ウォール街という戦費調達が可能な国際金融市場でした。これでさえ、イギリスのロスチャイルド家がモルガン家を中心とした代理人に作らせたものです。第二次世界大戦がなければ、そしてルーズベルト大統領という卓越したリーダーがいなければ、まったくアメリカは覇権を受け入れる準備はできてもいませんでした。

 

覇権移譲を余儀なくされたイギリスの事情

イギリス側の話をする前に、第一次世界大戦後から見ていきましょう。

 

以前お話しました通り、ウィルソン大統領に随行したモルガン商会の代理人が対独賠償金額をまとめ上げました。理由は、この賠償金を得なければ、英仏は戦時国債を返済できず、これらの国債の大口顧客であるロスチャイルド家やモルガン商会が大損するからです。

 

加えてヨーロッパの金利がアメリカよりも全体的に高かったため、アメリカの資金はドイツを中心にヨーロッパ復興に向けて投融資されていきました。ここに、ドイツはアメリカ経済に依存する形が生まれました。

 

また、一方のアメリカも国際協調路線であり、ベンジャミン・ストロングNY連銀総裁の下、「1925年のイギリスの金本位制復帰にさいしては、イギリスへの融資、利子率引き下げ、流通通貨量の増加、などでアメリカはイギリスを支援したし、1927年にイギリスがポンド切り下げの危機に陥ったときにも、ストロングによる利子率引き下げと、8000億ドルに上る公開市場操作によって、イングランド銀行の強化を図り、成功した」**と言われています。

 

しかし、ストロング死去後連銀は景気過熱を懸念し、公定歩合を引き上げてしまいました。アメリカからヨーロッパへの資金の流れが逆流し、ドイツは賠償金を払えず、英仏も戦時国債の返済が難しくなっていました。加えて、ヨーロッパが食料自給率を上げようとしたタイミングでアメリカも後進農業国に投資していたため、全体的に農作物の大増産が発生し、国際価格が約3割も値下がりし、第一次産品輸出国等の債務国が真っ先に国際収支危機に陥りました。そんなときに、世界恐慌が起きたのでした。

 

こうした状況に当時のドイツ政府が上手く対応できなかったため、ナチスドイツの台頭を許してしまいました。ではナチスドイツはどうしたのでしょう?軍事力強化を目指したため、重工業への重点的な投資が行われる一方、並行してアウトバーン(高速道路)等社会インフラ整備への公共事業が進められました。加えて徴兵令を出せば、完全雇用に近い状態が生まれます。

 

一見政府が赤字覚悟で財政支出し、景気浮上の呼び水効果を期待する政策のように見えます。そしてアメリカのニューディール政策よりも成功したように見える瞬間はあったようですが、日本の満州の場合と同様、経済自体に軽工業から重工業へ移行するだけの技術力や市場等の準備が出来てないと、呼び水をいくら注いでも真水がなかなかできないようです。机上の計画通りになかなか経済は動いてくれないのは、今も昔も同じです。

 

とどのつまり、財政赤字が支える経済復興ですから、すぐに何らかの手を打たないと、外貨不足が深刻になり、マルクの信用度が急落してしまいます。加えて農業をナチスが軽視したため、食糧難にも直面しました。既にナチスの経済政策が国民に受けている上げ潮モード、ナチスの人気を維持するには、農業国に対し戦争を起こし、食料を得るしかありません。

 

よって、ヒトラー総統は小出しに軍拡政策を打ち出し、英仏の反応を見ます。すなわち、ヴェルサイユ条約に違反し、再軍備、ラインラント進駐した上に、オーストリアやチェコスロバキアにも食指を伸ばしました。

 

しかし、戦争忌避型の英チェンバレン首相は、宥和政策と称し、ヒトラー政権の動きを止めませんでした。確かに、第一次世界大戦後の足かせとして軍事力を著しく制限していたのですから、早い段階で戦っていれば、ナチスドイツはすぐに敗北し、第二次世界大戦は回避できたかもしれません。しかし、どういうタイミングあるいは条件で、新興国に対し老大国は戦いを仕掛け、その地位を維持するべきでしょうか。これは、国際学者の永遠のテーマです。しかし、あまりに新興国に甘い顔をするのは、チェンバレン首相の二の舞だ、という警戒心は欧米にはあります。

 

その後、ヒトラー総統が前言を翻しポーランド侵攻の開始を契機に、チェンバレン首相は辞任し、チャーチル首相が後任となり、ドイツに対し宣戦布告します。ここに第二次世界大戦が始まりました。

 

チャーチル首相の母親がアメリカ人であったこともあり、個人的にアメリカに対し近しいものがあったのでしょう。ワシントンを訪れるたびにホワイトハウスに3週間も滞在するほど、ルーズベルト大統領と密なコミュニケーションをとっていたと言われます。この2人のリーダーが、ここまで協力・情報共有していいのか?という両国内で起こっていた疑念を抑える役割を果たしていたのでしょう、ホワイトホール(イギリス版霞が関)が大西洋の両岸に存在すると言われるほど多くの軍人、官僚、学者が大西洋を横断していきました。

 

そのため、一部の学者が「コモン・ロー同盟」(成文化こそされませんでしたが、実質同盟)ともいう、「特別な関係」が出来上がっていきました。協力の範囲は多岐にわたり、両軍の動きを調整するために両国連合参謀本部が立ち上がり、その下で日本よりもドイツを優先する方針が確認された他、軍需品の生産、兵站計画等も調整されていきました。

 

科学技術面でも当時まだイギリスの方が優位にあったジェットエンジン、レーダー技術、化学兵器、対潜水艦装置、ウラン・核爆弾技術等において情報が共有され、アメリカ国内での開発が急ピッチで進みました。そして、インテリジェンス面でもドイツ軍の暗号解読グループ、ULTRA(映画「イミテーション・ゲーム」で描かれたので有名ですね)情報をアメリカに共有しました。この過程でアメリカは、情報の解読、分析方法も学びました。

 

しかし、イギリスが優位であった頃にはいい生徒であったアメリカも、資源の豊かなアメリカが取り組むとやがてイギリスを追い抜き、次第にイギリスに情報共有する意義を見出さなくなっていきました。戦争遂行方針に関しても、アメリカは真珠湾攻撃により参戦したため日本本土に早く近づく方法としてインドシナ半島経由で援蒋ルートを模索すべきと考えましたが、イギリスは日本攻撃よりも英領植民地の保全に注力したいと考え、意見の衝突がありました。しかし、チャーチル首相は対独戦でアメリカとの関係を悪化させるよりはと、自らの力の限界を受け入れたようで、アジア戦線における戦争方針決定過程にはイギリスは次第に関与しなくなっていきました。

 

こうして、アメリカは覇権に必要な4つの能力を全て自ら実装するかイギリスから教わる形で習得していきました。そしてトルーマン大統領以降、アメリカは次第に一人歩きしていきます。しかも、アメリカには「マニフェスト・ディスティニー」(明白なる使命)という言葉があります。元々白人による西部開拓を正当化する言葉でしたが、膨張主義に通じるロジックであり、覇権を持つ能力を満たした国が持つには、危険な思想です。

 

一方、イギリスはアメリカを制御できないことを悟っていたのでしょうか。イギリスは、アメリカに1つ重要なことを教えなかったかもしれません。それは「覇権は金喰い虫」である、という教訓です。

 

 




 

*ジョン・ベイリス著「同盟の力学」(良著です)

**秋元英一著「世界大恐慌 1929年に何がおこったか」

 

吉川 由紀枝???????????????????? ライシャワーセンター アジャンクトフェロー

慶応義塾大学商学部卒業。アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)東京事務所

にて通信・放送業界の顧客管理、請求管理等に関するコンサルティングに従事。2005年

米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院にて修士号取得後、ビジティングリサーチ

アソシエイト、上級研究員をへて2011年1月より現職。また、2012-14年に沖縄県知事

公室地域安全政策課に招聘され、普天間飛行場移転問題、グローバル人材育成政策立案に携わる。

定期購読はこちらからご登録ください。

https://www.mag2.com/m/0001693665