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東京IPO特別コラム:「歴史の重み:日本の歴史問題のための歴史理解 その1」

ドイツと対照的に、日本では歴史問題が長らく近隣諸国との関係において大きな棘となっています。今日においても慰安婦問題や徴用工の補償問題等が存在します。東南アジアのリーダー達も早く歴史問題を克服し、戦略的な関係を構築したいと思いながら、日本がなかなかこの問題を解決できないことに不安と不信感がにじむような発言をしています。一方、日本政府は中国を除く近隣諸国と平和条約締結時に賠償金を支払い、また何度も謝罪をし、「謝罪疲れ」に陥っています。それでも誠意が伝わらないのはなぜでしょう?

確かに、ヒューマンタッチが感じられないことはあります。当時のアデナウアー西ドイツ首相は近隣諸国を訪問しては第二次世界大戦の戦没者慰霊碑を訪れ、献花後に跪き、首を垂れる行為を繰り返していました。また、オバマ大統領(当時)の広島被爆者とのハグも、とても印象的でした。パフォーマンスか否かに関係なく、こうした行為は言葉以上の表現力を持ちます。日本の首相はそういうことはしませんが。。。

しかしそれ以上に、首相がアジアで謝罪しても、その直後にわざわざ否定をしに行く日本の政治家がいると聞きます。日本では報道されなくとも、現地では報じられ、日本の誠意が疑われると言います。

この否定する行為の根底には、旧日本軍が戦闘で負けた相手はアジアではなくアメリカであり、どこかちぐはぐ感があるのではないでしょうか。著者の時代の平和教育は映画「はだしのゲン」、「兎の眼」、「黒い雨」程度なので、ここから想起されるのは、(東京大)空襲や原爆投下位でしょう。これでは戦域がアジアに広がっており、加害者の立場にいたことが伝わりません。

第二次世界大戦中の犠牲者数は、アジアで以下の通りです。*
・中国:1000万人以上
・インドネシア:400万人
・ベトナム:200万人
・フィリピン:100万人
・朝鮮:20万人
・ビルマ(現ミャンマー):15万人
・マレーシア、シンガポール:10万人
・台湾:3万人

参考のため、沖縄戦の戦没者は約20万人、1945年3月9日深夜の東京大空襲による被害者は約8.4万人、広島原爆による死者は約14万人です。**いずれも言を左右して言い逃れられる数字ではありません。

身の程知らずの、欲のかきすぎ
そもそも日本が太平洋戦争を始めたのは、日本の石油輸入国、アメリカから禁輸措置を取られた結果、アメリカとその近しい連合国に対する敵意を高め、かつ石油等の資源を確保するためインドネシア、マレーシア等欧米のアジアでの植民地へ進軍したからでした。

禁輸措置を取られるほどに、何がアメリカを警戒させたかと言えば、中国のみならずインドシナ半島へ日本が食指を動かし、欧米の視線がヨーロッパの第二次世界大戦に集中している隙にアジアでの「世界秩序」に大きく挑戦しようとしたためです。なぜそんなことになったかと言えば、日本海軍が南進論を推し進めたからです。これは、満州事変を契機に満州を実質的に獲得し、さらにその南へと拡大した日中戦争での勝利、「手柄」に対する日本陸軍への対抗心、嫉妬心から来たものです。

では、なぜ日本陸軍が中国大陸で野放図に戦域を拡大していったかと言えば、満州事変で「手柄」をたてた石原莞爾等の後輩将校たちが同類の「手柄」をたてたいと思ったためです。では、石原等はなぜ満州事変を起こしたのかと言えば、満州での治安が悪く、在満日本人への人命や財産を脅かす事件が多発したためです。当時既に中華民国が建国されていましたが、北方の軍閥が跋扈していた地域にまで政府の権威が及んでいませんでした。

そんな危ない地域であることを承知でいった日本人の多くはどんな人々であったかと言えば、昭和恐慌等により日本本土での生活苦から逃れるため、北東アジアにおける最後のフロンティアである満州にしか希望を見出せなかった人々です。そして、関東軍として満州に派遣されていた軍人の多くもまた、口減らしのため陸軍学校に送り出され、そのまま職業軍人となった人々です。満州で同様の生い立ちを背負った人々を見出し、シンパシーを感じたであろうことは想像に難くありません。首謀者の石原莞爾も、昭和恐慌等の被害が特に強かった東北地方(山形県)出身で、まさに口減らしのため陸軍幼稚学校に入りそのまま職業軍人になった人です。

本来取り締まるべき中華民国政府はあてにならず、目の前で同胞が死傷していく様を軍人として守ってやれないことに対する、やむに已まれない想いは分からないでもないですが、より大きな視点で見れば大きな問題です。

まず、石原等が行った行為は無断で軍を動かしたわけですから、軍法に則り処罰されねばなりませんでした。当初中央本部は時の内閣と連携し、取り締まるはずでしたが、リーク事件の発生により中央の権威が失墜し、加えて翌年中国のパイプが太い犬養毅首相が五・一五事件で殺害されるに至り、軍をしっかり取り締まろうという政治家が鳴りを潜めてしまいました。

その結果、石原は犯罪人どころか、参謀本部作戦課長として東京に「凱旋」することになってしまいました。これが、関東軍の凡人将校たちに、暴走しても結果が良ければ、罪に問われない、という教訓を引き出させることになりました。その実、東京に戻った石原が後輩の武藤章(後にA級戦犯として絞首刑)等に満州より戦域を広げてはならないと命じても、どの口が言う、と冷笑を浴びたと言います。

また、満州事変の結果満州国が建国されますが、これは実質直接ソ連と国境を接することになり、非常に危険です。今日のウクライナを見ればわかりますが、強国と国境を接すれば、国境警備を怠るわけにはいかなくなります。ビスマルク宰相のように、領土拡大は普仏戦争まで、今後戦うとすればフランスのみ、その他の強国とは同盟関係を結んでおく、というような体制を以て臨めばまだ分からなくはないのですが、それでも当時の日本には大きな重荷であり続けたはずです。

そして石原本人もこれ以上の拡大は望まず、「世界最終戦争」***に向けてまずは日本も満州も重工業を発達させ、経済力をつけるべきと考えていました。しかし、石原の「手柄」があまりに眩しすぎ、ビスマルク宰相がウィルヘルムI世の拡大欲を制止できたようにはいかず、各自の欲望の広がるままにむやみに戦域を拡大させていきました。

少々脱線しますが、もし日本が満州以外に拡大しようと思わなければ、満州国(日本)をバッファーとすることができる中華民国の方に有利に働くことになります。満州は漢民族が元々中国の国境と考えている万里の長城より外にある土地ですから、やりようによっては、犬養首相が中華民国と交渉を成立させ得たかもしません。

明治から、特に日露戦争以後アジアの独立運動家たちの多くは、日本に逃亡、亡命、あるいは留学していました。中国であれば孫文、蒋介石、汪兆銘、周恩来、李氏朝鮮であれば金玉均、インドであればラース・ビハーリー・ボース、チャンドラ・ボース等が有名でしょう。

また、中国の場合清政府が日露戦争後日本からその強さを学ぶべく、中国に近い日本へ有能な若者や官僚を留学させていました。中国の留学生だけでも、7000人とも2万人ともいわれます。彼らが帰国後、中華民国を建国しました。1913年中華民国初回議会において、衆議院議員596名中67名、参議院議員274名中165名が日本留学か調査のため来日経験があったと言われています。****どんな時代においても、このように日中が理解しあえていた時はないでしょう。

ちなみに、この頃の名残が、今日でも中国で使われている欧米由来の言葉に表れています。明治以降福沢諭吉始め日本人が訳した西洋の用語が漢字であったため、これらの訳語はそのまま中国に輸入されたのでした。政治、経済、銀行、民主主義、共和国等多岐にわたるため、「中華人民共和国」のうち「中華」以外は全てこの時期輸入した言葉と言われます。

こうしたアジアの来訪者を金銭面、精神面、武器調達面、滞在先(隠れ家)の斡旋等色んな形で支援していたのが、犬養毅や頭山満他アジア主義者でした。孫文の葬儀で孫文の棺を担いだのも、犬養、頭山です。そんなわけですから、犬養首相が中国との関係を決定的に悪化させずに事態を収拾できたかもしれないという歴史のIFは、あながち妄想ではないのです。

では、犬養首相は殺害されましたが、頭山満他アジア主義者はその後どうしたのでしょうか?彼らはアジア主義者である前に、日本の利益を優先し、関東軍の進軍を助けることはあっても、阻むことはありませんでした。結局、日本が弱い頃には他のアジアと同じ視点で列強の横暴を非難しましたが、いざ自国が列強と同じ行為をする段に至っては、見て見ぬふりをしたか、理解できなかったのか、口を閉ざしたのでした。


欲望の抑制はこのように難しいのです。日本が第二次世界大戦に費やした金額を1930年代に日本の農村や都市労働者の救済に使えば、その後の悲劇は生まれず、よほどいい方向に動いたでしょうに。ちょうどその頃アメリカでは雇用創出政策として、政府が社会インフラ建設事業を着手するようになりました。また、自動車の他、洗濯機、冷蔵庫等いわゆる白物家電、電動や石油エンジン式の農工具等も開発されつつあった頃です。日本でも、戦争を考えずにこれらの発明品やその技術を輸入、あるいは二コラ・テスラ等の技術者を招聘し、全国津々浦々までの電化計画や幹線道路建設、農業の効率化等に専念していたら、後付け理論ではありますが、1930年代後半から第一次世界大戦時と同様な好景気に恵まれたことでしょうに。


*毎日新聞社「数字は証言する〜データで見る太平洋戦争〜」https://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/
**総務省ホームページ「一般戦災死没者の追悼」
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/index.html
***石原莞爾は、その著書「世界最終戦争」にて50年後(1970年代)には日米戦争を予想していました。
****山室信一「思想課題としてのアジア」(大作ですが、この手の話では名著です)


 




吉川 由紀枝???????????????????? ライシャワーセンター アジャンクトフェロー

慶応義塾大学商学部卒業。アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)東京事務所

にて通信・放送業界の顧客管理、請求管理等に関するコンサルティングに従事。2005年

米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院にて修士号取得後、ビジティングリサーチ

アソシエイト、上級研究員をへて2011年1月より現職。また、2012-14年に沖縄県知事

公室地域安全政策課に招聘され、普天間飛行場移転問題、グローバル人材育成政策立案に携わる。

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