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東京IPO特別コラム:「歴史の重み:冷戦 その3 ソ連の論理」

検証ポイント2:冷戦中、東西陣営は正しく相手を理解していたのか?
ソ連の論理
英米の読み通り、冷戦当初モスクワには対米戦争をする能力はないと考えていました。それ以上に、東欧諸国を衛星国にできた点ではよかったものの、ドイツ問題はソ連の望み通りの結果にならず、不本意ながら東西分裂となり、アメリカと西欧を結束させてしまい、ソ連の安全保障が脅かされていると、スターリンは感じていました。この認識が、冷戦を作ったにせよ、一線を越えてはならないという歯止めになっていました。

しかし、アメリカが冷戦当初から世界規模で共産主義イデオロギーと戦う思考回路でいたのに対し、スターリンがそこまで意図していたかは不明です。確かに、共産主義が世界に広まるはずだし、それを歓迎するつもりでいました。しかし、それがどこまで対英米関係に影響が生じるのか、あまり緻密な計算はなかったようです。

例えば、ベトナムで共産主義者となったホー・チ・ミン率いる独立戦争が始まると、当然宗主国フランスでは共産党への風当たりが強く、政治的に孤立せざるを得ませんでした。スターリンにとって、これは痛手でした。スターリンの思考の中心は、やはりヨーロッパにあり、「アジアのジャングルよりもフランスの方がはるかに重要な戦場」*なのでした。

一応、ヨーロッパの共産主義者特有の思考でしょうが、理屈はあります。共産主義が発達するのは、封建社会から脱却し、工場等で働く都市部の労働者が資本家達に搾取されている前提です。(封建制度では農民が団結してみても、他地方の農民と交流が密ではないので、百姓一揆程度の話にしかならず、全国区の話にならないため)よって、植民地化されたアジアやアフリカでは、共産主義が発達するに十分な経済である「はずがない」と見下し、むしろヨーロッパにこそ共産主義が花開く「はず」なのです。そんな一番の有望「市場」で共産主義の人気が落ちてしまっては困る、というのが、本音だったのでしょう。事実、英米と敵対しない関係を築こうとスターリンが考えていた戦中と戦後直後の間、むしろヨーロッパの共産主義者に強硬手段を取らないように自制を促していました。

しかし、現実には共産主義が発達するとは思えなかった、中国や北朝鮮、ベトナムで共産主義政権を樹立したのですから、共産主義に疑念を持ってもよさそうなものなのですが、信仰のレベルにまで信じてしまうと、反証を客観的に見ることができなくなるのでしょうか。。。

ちなみに、共産主義者特有の思考ですが、スターリンは資本主義陣営内で必ず対立が発生すると信じ、それを利用すればソ連に比較優位があると考えていました。*しかし、これも現実には、西側陣営内ではなく、中ソ間での深刻な対立が国境紛争にまで発展し、文化大革命で疲弊した上にソ連への極度な警戒感を持つ中国は、ベトナム戦争を終わらせたいと願うニクソン大統領と、イデオロギーの相違を乗り越えてまで接触に応じたのでした。

皮肉なことに、ニクソン大統領の電撃訪中は、ベトナム戦争で疲弊したアメリカの足元をソ連に見られないために、仕組んだ一幕でした。アメリカがソ連に敵対する中国に関心を示せば、ソ連はアメリカが提案する戦略兵器制限交渉に乗ってくるはず、と中ソ間の対立を利用した寸劇でした。そして、ブレジネフ書記長はうかうかと乗せられたのでした。

ちなみに、もう一か国「乗せられた」国があります。1972年2月電撃訪中による成果はほとんどなかった(本当の米中国交樹立は、日本に遅れること7年の1979年)のに、これを米中の真の和解と「解釈」し、「コンピュータ付きブルドーザー」こと田中首相は中国市場を目指し、同年9月には日中国交回復しました。ニクソン大統領やキッシンジャー国務長官の眼からしたら、ずいぶん間抜けか裏切者かに見えたことでしょう。。。

さて、話を共産主義の輸出に戻しますと、確かにソ連は、様々な場所からやってくる自称?共産主義者の支援をしました。しかし、世界中に共産主義の営業活動を組織的にしていたかといえば、そんなことはありません。基本的に日和見主義で、頼ってきた相手が自国で政権がとれそうであれば支援しました。(彼らの人間性、カリスマ性、政治力も、もっと考慮すべきでしたが。。。)

実際70、80年代にソ連はアンゴラ、南イエメン、エチオピア、アフガニスタンに軍事援助したと前述しましたが、これもソ連が独自に開拓したわけではなく、キューバのカストロの仲介のおかげでした。この頃キューバの敵を自認したニクソンの大統領選出が見込まれたため、ソ連の支援が不可欠とみて、「手柄」を献上しようとした結果でした。

ここで、ソ連は大きな誤りをしました。「1978年の時点で、モスクワのほとんどの政策決定者は、その第三世界政策がデタント・プロセスの将来に関するアメリカの認識に及ぼす深い影響に気付いていなかった。(中略)大多数の政治局員が感じていたのは、1970年代初期から中ごろにかけて生じた変化は、南側諸国の全体的な政治的傾向が左翼的に方向転換したことであり、また、ソ連が第三世界の急進的運動を、革命的組織を打ち立て、新たな国家の形成に着手する重要な段階を通して保護し、支援し、指導することができるようになったという感覚であった。アメリカはこれらの動きに抗議するかもしれないが、ワシントンは、最終的には、世界の主要な戦略拠点から遠く離れた貧しい国々での事態を理由に、全体的なデタントのプロセスを台無しにする危険を冒すことはないだろう、とソ連側は考えた。」**

特にソ連によるアフガニスタン侵攻は、カーター大統領の安全保障アドバイザーのブレジンスキーにとり、「インド洋への直接のアクセスを獲得するというモスクワの長年の夢」**実現への動きにしか見えませんでした。一方、ソ連は違う考えをしています。イラン革命勃発まで支援していたイランがイスラム主義を標榜し、共産主義を非難したため、いずれイランもアメリカも反共主義で結びつくに違いないと恐れ、「1979年3月ないし4月までには、ソ連の指導部はテヘランをその地域の安全保障に対する潜在的に危険な挑戦とみなすように」なり、隣国アフガニスタンの共産政権を支援することにしたのでした。

しかし、ソ連の支援はなかなか花を咲かせません。あまりに共産主義の「本家」であるという自負が強すぎ、各国の経済状況や社会の発展レベルに関係なく、ソ連モデルを押し付けたため、中国を始め多くの国を疎外し、失望させたのでした。

一方、「1978年末までには、疑いなくソ連の第三世界への介入に対するより広範な幻滅が、国際部やKGBのような主要な政府機関にも広がるようになった。(中略)彼らの計画がなぜ現地の抵抗にあうのかを立ち止まって考えたり、現地の指導者は彼ら自身の国々の政治的な複雑さをソ連人よりもよく理解しているかもしれないという事実を考慮したりすることがめったにないままに、上級顧問たちは、問題の解決策として、ソ連による管理を縮小するか、あるいは強化するか、という考えの間を揺れ動く傾向にあった。」**

エチオピアを例にとりましょう。元々ソ連は、エチオピアと敵対関係にあったソマリアを支援していましたが、エチオピアが共産主義に興味をもったため、両国を支援しつつ、そのバランスとりに苦慮しました。しかし、エチオピアで庇護者のメンギスツがクーデターで独裁政権を樹立すると、エチオピアへの支援を強めていきました。一方、メンギスツは権力強化のため、国内のマルクス主義者をあまりに多く処刑か亡命させたため、ソ連は共産主義社会がエチオピアに根付かないと、次第に幻滅していきました。

ソ連に配慮し、メンギスツは土地の国有化と集団農業を開始しました。短期的に生産性が上がったものの、79年以降は収穫が下がってしまいました。制度の強化を図りましたが、これが逆効果で、違法な国有林の伐採や大規模な土壌侵食を招き、さらに一部の小作農が生産物を売り渋りした結果、「1984年にウォロ州だけで50万から75万の人々が餓死」**させるほどの飢餓が発生してしまいました。「決して起こる必要のなかった飢餓であった。それは、エチオピアを荒廃させ、それと共に、アフリカの角において社会主義を導入するという政権の夢をも破壊したのであった。」**

「1960年代と70年代に登場した多くの左翼的革命国家にとって、80年代前半は失望と深刻な後退の時代となった。それらの中で、国内政策において資本主義に代わる包括的な選択肢を提示できた国はまったくなく、多くの場合は、自国の社会的、経済的条件には適合しがたい東欧から輸入したモデルに依存した。貴重な天然資源を国際市場に持ち込むインフラストラクチャーが存在する国を除いて、国有化計画は経済的に成功しないことが判明し、その結果、一般的には最も重要な知識と技術を有している土着のブルジョワジー層の大量出国を招いた。例えばエチオピアでは、1974年から80年の間に教育を受けたエリートの2/3が国を離れた。」**結果、1980年代前半から中国を始め東アジアでの輝かしい経済成長に目移りし、多くの国々の関心は再び市場経済へと移っていきました。

一方、幻滅したソ連も反省しました。「ソ連のエリートの間では、介入主義がもたらした重大な損害は、マルクス主義的政治理論の破綻であった。1970年代によく言われたように、第三世界に新たに生まれた政権はまさに社会主義を映す鏡であった。その鏡を長く見れば見るほど、そこに映った姿が嫌いになった。彼らの多数にとっては、第三世界におけるソ連の同盟国によって、ソ連自らが体現していると考えていた先進的な社会主義ヒューマニズムが馬鹿にされているように思えた。しかし、その気まぐれなあり方は、ソ連自体のイデオロギーと実践の部分的反映であることも分かってきた。1980年代後半までに、ソ連のエリートたち自身の間で、第三世界の社会主義にはソ連の悪いところが映し出されていると認識されるようになった。」**

ゴルバチョフ書記長は、こうした反省から第三世界への支援を縮小し、アフガニスタンからも撤退しました。ブレジネフ書記長時代から増大させてきた軍事費が国家支出全体の1/3を占め、加えて外貨収入の大半を原材料輸出に頼ってきたソ連経済にとり、その国際価格下落は大きな打撃となっていました。相当弱っていたソ連経済を再建するには、アメリカとの軍拡競争から軍縮へと方向転換し、国内改革(ペレストロイカ)を推進せねばなりません。

そんなときに、レーガン大統領がSDI計画を提唱しました。ソ連の軍専門家は、実現不可能と考えていましたが、レーガン大統領があまりに自信満々でしたので、一抹の不安を覚えてしまいました。自軍では対抗措置をとれないという結論から、ソ連軍もペレストロイカを受け入れざるを得ず、ゴルバチョフ書記長はレーガン大統領と軍縮交渉に乗り出したのでした。しかし、時はすでに遅しで、突然で急激な東欧や第三世界への援助縮小は、現地の政権不安定化を招き、ベルリンの壁が崩壊するに至りました。最後は、民族自決を尊重したゴルバチョフ書記長の手で、ソ連は解体したのでした。

このように米ソの論理を見比べると、改めて相手の理解、そしてコミュニケーションの難しさを感じます。特に、イデオロギーが国際政治に関わることで、相手の出方の計算が一層難しくすることが分かります。

 

>>次号へ続く

*ヴォイチェフ・マストニー著 「冷戦とはなんだったのか」
** O.A.ウェスタッド著  「グローバル冷戦史」

 




吉川 由紀枝???????????????????? ライシャワーセンター アジャンクトフェロー

慶応義塾大学商学部卒業。アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)東京事務所
にて通信・放送業界の顧客管理、請求管理等に関するコンサルティングに従事。2005年
米国コロンビア大学国際関係・公共政策大学院にて修士号取得後、ビジティングリサーチ
アソシエイト、上級研究員をへて2011年1月より現職。また、2012-14年に沖縄県知事
公室地域安全政策課に招聘され、普天間飛行場移転問題、グローバル人材育成政策立案に携わる。
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