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叶内文子の社長インタビュー Vol.2:ジャベリ・アルパン氏((株)ベリテ代表取締役社長)

株式会社ベリテ(1991年9月26日上場/東証2部:9904)



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ベリテの急回復の秘密を探るべくアルパン社長にインタビューを行い、前回は少年時代のお話しをうかがった。たしかにアルパンさんの原点が、真珠に囲まれて育った神戸にあった。インド時代ではアルパンさんの考え方の幹をうかがい知ることができた。続いて今回は青年時代をうかがっている。仕事人としての原点が探れそうだ。






 

ベリテ社長

↑代表取締役社長 ジャベリ・アルパン・キルティクマール

インドでは絶対である父親の決定によって、後ろ髪引かれる思いでインドをあとにしたアルパンさんは、日本の御徒町で社会人としてのスタートを切ることになる。18歳だった。

上野と秋葉原の間あたり、御徒町は日本で唯一の宝飾問屋街である。全国からジュエリー店のバイヤーが買い付けに来るダイヤや色石のルース(裸石)を販売したり、加工やジュエリー製作を請け負う店が並ぶ。御徒町と言う名前は、馬に乗ることが許可されない下級武士である御徒が多く住んでいたことが由来だそうだ。宝飾店街のルーツは江戸時代にさかのぼる。上野寛永寺などの寺社が多く、吉原などの色町にも近く、仏具をつくる職人や珊瑚や鼈甲を扱う職人、かんざしや小間物をつくるかざり職人なども集まっていたという。現在でも伝統工芸の職人さんが居る。戦後は米兵が時計を売ったり、アメ横の前身のような市がたっていたこともある。小さな美しいものを扱いながら、雑多な空気感を抱えた町である。

アルパンさんは、父の知り合いの宝石卸商の日本支社で働くことになった。日本支社と言っても経理担当の人以外はみな外国人という環境で、日本育ちで流暢な日本語を話すアルパンさんは貴重な人材だが、まだダイヤモンドの選別しかできない若者であり、まず与えられた仕事は「お使い」だった。ママチャリに乗って、スーツを着て、「ルビー通り」から「ダイヤモンド通り」へと数百というジュエリー業者の並ぶなかを走り、日本の大手宝石店などにダイヤを運ぶのだ。月曜から土曜まで御徒町の中を休みなく走り回る日々が続いたが、仕事は苦にならなかったと言う。

新入社員の「使い走り」ではあるが、なにしろ運ぶものが宝石だ。普通に考えるとおそろしい気がするが、あの街ではそれが当たり前なのだろう。そのころ、紫色のビルで有名な多慶屋(たけや)で携帯電話を買った。今でもその番号を引き継いでいるそうだ。

仕事は着実にこなしたが、大変だったのは生活だ。日本の実家は神戸にあり、アルパンさんは東京の社宅に住むことになった。2LDKに4人の共同生活。掃除の行き届いていないトイレ、雑然とした部屋。若い男性の共同生活だ。それでなくとも少々雑にはなりそうだが、20代の先輩たちは異国育ちで、全く習慣も違う。節約のため夕食は自分たちで交代で作ったが、アルパンさんは作れないので(インドの家にはコックさんが居た!)洗い物の係りになった。人生初の皿洗いである。しかも作られる食事は異国風で、毎日食べるのは飽きてしまった。先輩たちは土曜日にはちょっとだけスペシャルな料理を作って母国の映画をレンタルビデオで見て、トランプのようなものをして楽しんでいたが、アルパンさんはこれにもなじめなかった。

インド時代には「違い」を受け入れることを身をもって学んだ。インドなら、汚くてもトイレットペーパーがなくても空気が悪くても、それは我慢できた。そういうものだと思うことができた。しかしここは日本だ。それにインドでは帰る場所があった。大きな家におばあさんとコックさんとで住んでいたのだ。それが今回は逃げ場がない。しかも、遠いとはいえ、同じ日本に父母の住む自分の家があるのにと思うとやり切れなかった。せめてもの楽しみは、土曜日の野球。無料の情報誌で探して電話してチームに加入した。そこでは様々な国の友人ができた。

4人の共同生活が苦しく、もう限界だと思った頃、営業の先輩が誘ってくれて彼の家に転がり込んだ。しかし、ここでの生活も落ち着かない。やり手の、料理がとてもうまい先輩だったが酒癖が悪く、町の人と喧嘩になったり、外国人の友人がたくさん押しかけてきたりしていた。

仕事は週に6日間走り回っているだけで、給料は10万円。神戸での幼馴染たちは家業を継いで社長になっていたりする。いったい自分は何をやっているのだろうかと暗澹とした気持ちになり、人生で初めて泣いた。

3〜4週間も経ったころ、日本支社長から救いの手が差し伸べられた。部屋が空いているからと支社長の家に下宿させてもらうことになったのだ。それも気を使うことではあったが、なにより部屋がきれいでホッとした。母国料理しか知らなかった支社長夫人に焼きそばなどの日本の料理を教えたりして、子供たちにも喜ばれ、アルパンさんの生活も少し落ち着いた。会社からは遠く、支社長と一緒に通勤したが、この時に支社長から物の見方を教わったり、いろんな話しをしたことが後に役立った。

アルパンさんが御徒町に移った1997年といえば、バブル崩壊後低迷していた日本経済は金融機関の破たんという新たなステージに入り、マイナス成長に陥った頃である。消費税増税も追い打ちをかけ、個人消費は落ち込んだ。なかでも高価な嗜好品を扱うジュエリー業界は壊滅的打撃を受け、御徒町は倒産ラッシュに追い込まれていた。

入社間もないある日、自転車で宝石を持って訪ねた業者の事務所が空っぽになっていた。昨日も来たばかりだ。たった24時間前はまったく普通に営業していたのに、机も何もない。他にも倒産、持ち逃げが御徒町中で多発し、アルパンさんの会社も大きな損害を被った。多額の売掛金の残っている上司はパニックに陥った。アルパンさんは取り立てに行く上司に通訳として同行することになる。間に挟まれて通訳をするだけだったが、一生懸命話すアルパンさんに免じてと、月に10万円づつ返すと約束してくれた人もいた。

この数か月見守っていた支社長から、独立を提案される。神戸の自宅に戻り、関東以外の販売先を開拓しろというのだ。支社長から繰り返し言われた言葉は今でも忘れない。

「自分の株をあげろ。そうすればお前はいくらでも売れる」

アルパンさんの営業センスを見抜いていたのだろう。まだ19歳の若者にはかなりの重荷だったに違いないがそれだけ期待をかけていたと思われる。
98年3月に神戸に戻る。父が使っていたセキュリティも備えた事務所を使うことができ、準備は特に要らなかった。たったひとりの「神戸支店」のスタートだ。まずは売上をたてなければと思い、電話営業を開始する。業界の名鑑を使って上から順に日本全国に電話していく。

「はじめてお電話差し上げます。ダイヤモンドの輸入卸会社〜〜のアルパンです。仕入れ担当の方をお願いします」
朝から晩までひたすら、関東以外どこでも電話をした。

しかし、宝飾品ビジネスの基本は信用だ。見ず知らずの人間からの飛び込みの電話で売れるほど甘くはない。営業マンの平均売上が月に2〜3000万円のところ、100万円も売れない。みんなどうやって売ってるんだ?とあがく日々だった。アルパンさん達は低い固定給とダイヤの売上に応じた歩合給という制度だった。だから売上げは生活に直結する。売上げはどんなお客さんを抱えているかで大きく変わってくるので、後輩に紹介してくれたり譲ってくれたりはしない。すべて自分で開拓しなければならない。

ある時、下関まで業者を訪ねた。駅から電話で2時のお約束でうかがってますと道を尋ね、タクシーで現地に着くと、電話の声から日本人だとばかり思っていたと驚かれた。そんな見た目のギャップも印象が良かったのか、「うちはダイヤはあんまり買わないんだけど、おまえ一生懸命やから紹介してやるわぁ。」とお客さんを何軒も紹介してもらった。お客さんとは一緒に飲むこともあり、仕事とは関係のない話で盛り上がった。神戸の震災の話がよく出た。紹介された先でまた紹介してもらい、紹介、販売の繰り返しで2年くらい経ったころには月に1000万円近い売り上げがたつようになった。

こうした商売では、買った品物を質に入れて逃げる人もいる。お客さんに個人商店が増えてくると、借金を踏み倒されて苦労した父のことが頭をよぎり心配になる。実際に、アルパンさんに個人顧客を紹介していた商売仲間は、お客さんに持ち逃げされてしまった。アルパンさんに「ちょっと入金待ってくれ」という。ダイヤは質に入っていた。少々荒っぽいやり方でカタをつけたようだが、彼がお金を立て替えて質屋から受け出しアルパンさんにダイヤモンドを返してくれ、アルパンさんは傷を受けなかった。「運が良かった」という。しかし一人でビジネスをする怖さは感じた。

ある時お客さんが、世界のダイヤモンドビジネスの中心地アントワープに行ってみたいと言い出した。外資系宝石卸商本社のツテで日本人バイヤーとふたりで初めて本場ベルギーに買い付けに行った。
アントワープはベルギー北部フランダース地方最大の都市で、北海に面した水運の要所である。16世紀ごろには世界最大の貿易港であり、現在でもヨーロッパ第2位の規模を誇る。
そして世界のダイヤモンド原石の80%、カットダイヤモンドの50%がアントワープで取引されていると言われる、「ダイヤモンドの街」である。

その歴史は古く、15世紀にまでさかのぼる。インドで採れたダイヤモンドをポルトガルの貿易商がアントワープの港に陸揚げし、ヨーロッパに持ち込んだ。時の権力者ブルゴーニュ公・シャルルは権力の象徴としてダイヤモンドを愛し、お抱えのカット職人を雇うほどだったという。ユダヤ系ベルギー人のローデウィク・ファン・ベルケンがダイヤモンド研磨用の円盤を発明したことで、アントワープにはユダヤ人のダイヤモンドカット職人が集まり、研磨所が多く作られた。ユダヤ人は迫害を受けることが多く、小さくて高価なダイヤモンドを持ち歩ける財産として重用し、そのビジネスにも深く関わってきた。

今でもアントワープにはユダヤ人の一大コミュニティがあり、西のエルサレムとよばれるほどだ。アントワープ中央駅の周辺には、ダイヤモンド関連の会社が約1800社もあるという。数多くの国の旗がはためく市庁舎から石畳の道を歩いて大通りを1本入るとダイヤモンドストリートと呼ばれる業者の集まる場所がある。そこは静かで、まるで古い映画のように美しく見えた。道路には防犯のための鉄柱が設置され、事前アポイントメントのない者は建物に入ることすらできない。

入場ゲートのようなものがあり、そこで予約の顧客であるかどうかなどをチェックされた。パスポートを預け、期待に胸を躍らせて中に入るとそこは光の世界だった。何十種類ものダイヤモンド。大きいの小さいの赤いの黄色いの・・・。普段宝石卸店で働いていてさえ目にしたこともない種類の、何十億円何百億円というダイヤがそこにあった。小さなダイヤ1粒が大きな金庫から出されてくることもあった。パッドの上に並べられたそのダイヤを人々が選んで買い付ける。集まっている人々もまた独特だった。黒い装束にシルクハットの一目でそれとわかるユダヤの人。そこまで宗教の戒律が厳しくなさそうなイスラエル人。そしてインド人と地元の人達である。ダイヤモンドの世界はユダヤ人とインド人に支配されているのだ。その光景はアルパンさんを圧倒した。みなでワインを飲んでいるランチの様子にはあこがれも覚えた。

日本から同行したお客さんは4日で5000万円ぶん現金で仕入れた。すると本社の営業責任者が「お前も買ってみたらどうだ?」と言ってくれたのでアルパンさんも400万円のダイヤモンドを仕入れた。丸石だけでなくハートシェイプを入れたり、黄色い石も買ってみた。遊びを入れた仕入れだった。自分の判断で買い付けしたのは初めてだ。売れるのかどうかわからない。自分にとっては大金だ。心配はあったが挑戦してみたかった。そのダイヤはすぐに売れて、自信になった。そのお客さんもいい商売になり、またベルギーに行くという。同行したアルパンさんは今度は1000万円仕入れて、それもすぐに売れた。こうして売上高が月に2000万円超になって行った。

仕入れは楽しかった。こんないいものがこの値段で買えたという喜びはどこか狩りに似ている。ベルギーの街も少しづつ楽しみはじめ、またここでも友達を作った。

1990年代、「ハートアンドキューピッド」と呼ばれるカットが登場した。
特殊スコープでのぞくと8本の矢と8個のハートの形がくっきり見えるこのカットは、当時は高付加価値のニッチな商品で、品質の高い石にしかこのカットを施すことはなく、有名宝飾店に少量卸されるのみだった。例えばハートアンドキューピッドのパヴェダイヤを20石並べたリングは、雪の結晶のような輝きだ。

アルパンさんはこの「ハートアンドキューピッド」でもう少し低価格のものを出すことを提案した。ダイヤの石自体の価値がやや劣るものでも、このカットで出せないか。同じ石ならこのカットを施すことで2倍光輝いて見えるのだから、きっとお客さんには喜ばれるはず。ほんのちょっと内包物があっても素人目にはわからない、このカットをすれば十分きれいに見える。ある程度ボリュームがあってきれいなものなら、お客様の手に渡る時には50万円以上したジュエリーを10万円台で出すことができないか。もし出すことができればきっと売れると確信があった。それはアルパンさんがお客さん、バイヤーさん達のニーズを聞いてきたから。ベルギーでの仕入れを経験して自信もついてきたからこそできた提案だ。するとこれが飛ぶように売れた。色にやや難があるものにも広げて、アルパンさんの売上は月6000万円程になっていく。7〜8年目のことだ。

ダイヤモンドの買い付けは、いろんなサイズや品質のものを混ぜて買わなければならない。それをどのお客さんならどれを買ってくれるかとパズルのように考えながら買い付ける。ベルギーでの4日間ほどの買い付けでは途中夢でもダイヤモンドを数えていたそうだ。このダイヤはMさんが買ってくれるだろうか、値段出し過ぎたか、とずっと考えていたのだ。こうして仕入れたものを日本でお客さんに見せ、買ってもらう。帰ってきて3日間くらいは昼食を食べる時間もないほど営業にまわっていた。ダイヤに自信があったからお客さんにかなり強気で勧め、「お金はあとでもいいですよ」、「返品してもいいですよ」と言うことすらあった。そのころ売上1億円をあげるスーパーセールスマンになった。「関西で一番生意気な、しかしいいものを持ってくる」営業マンと言われた。

アルパンさんはどのお客さんが何を買ってくれるだろうかとずっと考えていたそうだ。あのお客さんのこだわり、このお客さんのはずせないところ。それぞれにあって、それさえわかっていれば、商品は売れた。

アルパンさんが小規模店に卸したダイヤが、関東の大手メーカーに売られ、関東の小売店にも出回り出した。だんだんとベルギーサイドの研磨が間に合わなくなり「ハートアンドキューピッド」は奪い合いになる。こんな値段で店頭に出せる「ハートアンドキューピッド」をベルギーから買い付けてくるのはいったい誰なんだと業界で話題になったと言う。注文が殺到した。通常の3分の1、4分の1の価格で、ちょっと内包物はあるが8本の矢と8個のハートが浮き出す美しいダイヤモンド。「ハートアンドキューピッド」は一気にブームになった。

アルパンさんにとって営業と営業の合間におしゃれな喫茶店でスイーツを食べるのがちょっとした楽しみだった。そんな時、心斎橋の地下街「クリスタ長堀」のきれいなトイレにダイヤの入った鞄を忘れてきたことがある。総額1億5000万円くらいのダイヤモンドだ。駅の改札まで行って気が付き、ダッシュで帰ったら、鞄があった。無事だった。姫路まで電車で行くときに普段は網棚には決して置かない鞄を、同行したお客さんにつられて置いてしまったことがある。案の定忘れて電車を降りてしまい、改札を出たところで気が付いた。2億円相当のダイヤが入っていた。駅員さんにダイヤとは言えず「大事な資料が入っているんです!」と言って探してもらい、こちらも無事に帰ってきた。いかにも高額品やお金の入っていそうなアタッシュケースではなく、ありふれた鞄にするなど気を付けてはいたものの、よく戻ってきたものだ。アルパンさんは「運が良かっただけ」と言うが、鞄を取り戻したあと予定通り姫路のお客さんの所に営業に行って4000万円売ってきている。かなりの心臓だ。

ここまでアルパンさんは一度も逃げられたり騙されたりしたことがなかった。御徒町時代のほか、父の仕事の後始末でも取立てに行き、人を見る目は養われた。雰囲気、ボディランゲージ、眼。この人を信用していいかの判断は特に宝石を扱う商売では大事だ。ベンツに乗ってるからといって信用してはいけない。父は騙されたではないか、と今でも肝に銘じている。

その後関西で人生に関わる重要な出会いがあった。

「低価格でキレイなダイヤモンドを届けたい」というアルパンさんの話にロマンを感じてくれたAさんが、大口のお客さんになってくれた。50代のきっぷのいい人だった。他の人達には非常に厳しく、誰も何も言えなかったが、アルパンさんだけは意見することも許された。息子のようにかわいがってくれた。ベジタリアンのアルパンさんのために野菜のお寿司をつくらせてくれた、しいたけをまいたり、なすびを握ったり。

Aさんのおかげでさらに売り上げを伸ばし、東京の在庫を売ったり、仲介もするなどルートを増やし、ひとりで年間18億円くらい動かすようになった。ベルギーに年8回行き、150万ドルくらい仕入れもしていた。アルパンさんは顧客も新たに開拓したかった。

そして、勤めていた会社が、Aさんと合弁会社を造ることになる。世界のダイヤモンドを一手に管理するデビアスが「mine to market」、採掘から小売りまでという方針を打ち出したことで、ダイヤモンドを取り扱う業界も消費者に届ける商品までを一気に扱うことが求められるようになり、アルパンさん達も研磨するところからジュエリーの完成品を売るところまでを手掛けることになった。

アルパンさんも石だけでなくジュエリーも売るようになり、合弁会社のスタートメンバーとチームを組んで日本中を回る。ジュエリーはOEMがあったり、発注、留め方、爪など、ダイヤのルースを売るのとは全く違う。小売店ではポップ、ディスプレイを作ったり、補充体制も必要。業者の開拓も自分でしなければならなかった。質の高いきれいなセッティングを低価格でやってくれる工場をタイや香港で探した。
強気の営業マンはここでもその力を発揮し、チームメンバーの分まで引き受けて、スリーストーン、トリロジーを何本売っただろうか。

当時のベリテにも売りに行ったし、いろいろなジュエリーショップやファッションビルにも営業に行った。地方に行き、委託販売のような形をとることもあった。IJT国際宝飾展にも立った。様々な形態での売り方を見ることができ非常に勉強になった。
その頃、親会社に対して銀行サイドからベリテを買わないかと打診がある。これが再びアルパンさんの進路を変えることになる。

今回はアルパンさんの社会人としてのスタートからうかがってきたが、ダイヤモンドの石を選別するところから、輸入卸、仲介、指輪やピアスといった商品の形になったものを小売店に卸すところまで幅広い経験をしてきたことがわかった。おそらく普通の営業では入れない本場アントワープの市場も見て、参加することができた。各段階で幅広い人脈も作った。だからこそ現在ベリテの社長として、仕入れのルートを変え、コストを削減することもできたし、流通段階での無理もきいたのだろう。昨年のIJT国際宝飾展では会場を歩くアルパンさんにあちこちから声がかかり、歩けないほどだったという。10年前の知り合い、数年前に仕事をした人など皆懐かしい顔だ。また、売る立場で多くのジュエリーショップや百貨店をまわったことで、現在はライバル会社である同業他社の特徴や内情もわかっているだろう。

こうした財産をどのように活かしたのか、次はベリテ入社後のアルパンさんのお話をうかがっていこう。

(掲載日 2019年4月22日)


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